想人(おもいびと)


 

姫様・・・私もこの地を離れることになりました。
貴女は江東にお帰りになり、今は何処にいらっしゃるのですか。
私だけ、幸せになることは貴女に申し訳ないのです。
例え、貴女がそう望んだ結果だとしても・・・。
・・・ですが、私はあの方の側にいたいのです。
お許し下さい。どうかこの紀威を・・・。


劉備が益州入りし、その後苦戦をしながらも、とうとう劉備は益州を手に入れた。
しばらくしてから、荊州の留守を預かる関羽らの家族を除き、益州入りした者の家族は成都へ移っていく。
・・・側女、紀威の元にも、夫である趙雲からの手紙が来た。彼らしく家族・・・彼女と生まれたばかりの一子、統への気遣いも簡潔に終わらせてあり、成都へ来い、と書いてある。
美麗な字とはほど遠いが、角張った字で、彼の性格を表したように真っ直ぐに並んだ文。
数本の竹簡だが、彼の精一杯の情が詰まっている。
近頃は紙というものが出回るようになってきたが、値が張る上、遠方の便りなどはやはり届くまでにも月日がかかり、保存上の問題から、まだまだ竹簡が主流である。

「統・・・父様が、久しぶりにあなたの顔を見たいそうよ。早くお出でと書いてあるわ」
歩くのもやっと格好がついてきた幼子が、はしゃぎながら母の膝にすがりつき、母の顔を見上げてきょとんとした顔になった。
趙統の目鼻立ちは、やはり自分に似て細めだが、きりっとした形良い眉は父似だ。父親に似たところを少しでも探そうとしている自分がおかしい。
・・・顔を見たいとも、早く来いとも、書簡に書いてはいない。ただ、気を付けて来い、とだけ彼らしい不器用な一言があった。
そう、彼はむやみに優しい言葉をかけたりしない。時には冷酷に見える事もある。
だが、彼の眼だけは悲痛な色を隠せない。
統を宿した時から腹が大きくなるにつれ、彼の表情は深刻に変わっていった。
母体を案じる為に、離れて寝るようになったが、ある夜には、こっそり彼女の様子を伺っている時もあった。
かつて、劉備の妻となった孫権の妹、孫臨の護衛をしていた彼女でなければ気づかないほど、静かにやって来て、静かに去っていったが・・・。
表立っての言葉は一切無かった。

統が産まれた時、彼は泣いた。
その手に我が子を抱いた時、涙が止まらなくなって頬を伝い、彼自身が驚いていた。
実際、床に横たわる紀威の眼にも、趙雲の戸惑いがよくわかった。
・・・ふいに亡くなったという先妻達の事が胸をよぎり、産後の喜びが影を潜めたが。
趙雲は止まらぬ涙を抑えられずにいたが、その歪んだ視界の中でも両手で抱えた我が子を貴重な笑顔で見つめていた。
劉備の子、劉禅阿斗君の成長を見守るのとはまた違った想いが、彼の中に芽生えたのである。
それから、趙雲の顔に笑いが浮かぶことが多くなった。子供を頻繁に抱くようになり、本当の父親となった。
自分が産んだ、愛する人の子が、その人に愛されることは幸せである。ほんの少し、我が子に嫉妬してしまうが、紀威の心も喜びに満ちていた。

だが、情勢は家族に甘くない。
成都入りした劉備の救援に、趙雲は張飛や諸葛亮に従い、ためらいなく出陣していった。
覚悟はしているが、落ち着かない。・・・それを察した赤子が泣き喚く。
子を胸に抱きながら、「大丈夫」と繰り返す。それは自分へ向ける言葉。
先年、劉備が同じように、益州へ向かう時、彼女の主だった孫臨が唇を噛んでいた事が思い出される。
残される者ほど、その生を案じる事がどれだけ胸を痛めるか。いっその事、死の報せを受けた方がそれ以上辛い思いをしなくていいのではないか、とまで考えた。
そう考えてから、夫を信用しない自分をまた責める。
繰り返し、繰り返し、同じ日々が過ぎて、・・・成都陥落の報が荊州に届いた。
安堵した。死んだ者の事や支配者が変わった益州の人々の事など考えもしなかった。
・・・自分は所詮、女なのだと悟る。
我が身可愛さ、家族可愛さだけの、狭い価値観でしかないことを知る。
それでも、趙雲が生きていてくれた事が、今の自分の全てであり、将来である。


紀威は長江を遡り、成都へ。過去となった一人の女に別れを告げて、ただ一人信じる男の元へ。
新居では、出迎えて笑顔で手を広げてはくれないだろうが、彼女と子供が来るのを静かに待っているであろう夫の元へ。

彼女は、夫がかつて涙を流したように、自分もそうなるとは思わなかった。
・・・成都の新居に着いた紀威と趙統を、やはり出迎えはしなかったが、その夜、趙雲は統を抱いた紀威の側に立ち、何も言わずに自分の胸に抱き寄せたのである。
・・・互いに無言だった。
胸にもたれさせた子を片腕に、もう片方の袖で顔を隠しながら、紀威は自らの感情を止められず、嗚咽した。
抱いている腕の力が少し強くなった。その手には新しい刃傷が刻まれていたが、彼女はまだ気づかなかった・・・。


・・・建安十九年(214)夏。劉備は成都を陥落させ、益州を本拠地にする。その翌年、紀威は趙雲の次子、広を産んだ。

 


えっと、唐突に書きたいと思って、一時間半ぐらいで書き上げたので書き足らずもあり、まとまりも無く(いつもない?)・・・理想追った夫婦像みたいなものになってしまいましたが。本当はとっても優しいんだ、趙雲は!というのを最後には入れたいので、ありきたりになってきたなぁ・・・。それでも書く度にこの夫婦が好きになってきます。恋愛物って案外好きなんだな、と自覚します。
=2004.4.20=

戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送