外は妻として呼ばれることを拒み、内は抗う。
実質、妻として在る己がただ愛されることを望み、夫の帰りを待つ。
日々それを繰り返し、心は乱れる。
嘆く心を見透かされることの無いよう、笑顔だけは形づくり、しかし、罪悪を感じる。
この望みが消える時は、この身が滅ぶ時・・・。
人馬の声が近づいてくる。館に、主人が戻る。
「お帰りなさいませ」
出迎えた女、その顔をちらりと見た主人・趙雲が与えたのは軽い頷き。
彼の妻とされる女は紀威(キイ)。元は劉備の妻となった孫権の妹姫に仕えていた女隊長。
姫、孫夫人は劉備が益州へ出兵した間に呉へ帰ったが、紀威が趙雲を慕っているのを知り、帰り際、彼女を船に乗せずに置き去りにし、半ば強引な形だったが趙雲に迎えられた。
しかし、趙雲は妻と呼ばせない。名無き女。それが彼の側に侍る条件。
まだ館に入って半年ほど。紀威は未だに落ち着かないものを感じる。
男勝りの姫が味わったのと同様、女としての振るまいに戸惑い、悩みを重ねている。
彼を慕う紀威は初め、落胆しきっていた。
その胸に寄り添える喜びに満たされつつも、反面では恐怖に震えていた。
・・・戦で、生死の局面の中で生き延びてきた者で在るが故に、夜半目を覚ました趙雲が、その顔を覗いていた彼女に対して身構えたこと。
・・・視点を合わすことを避けること。合わせたとしても何かを映していること。
・・・日々の会話がことの他少ない。
・・・眠る時、夫婦は抱き合って眠るというが、彼は背を向けて一人で眠る。
なぜなのか。紀威は考える。一般的な夫婦像と比べた結果ではあるが、紀威は憧れさえ抱いていた。
彼の心に自分はいないのではないか、という不安だけが募っていくのを振り払いながら・・・。
まだ一月。二月・・・半年。紀威はそれを押し込めて時が過ぎるのを待つ。
一つ一つ夫婦として積み上げる。自分がそう彼に言ったのだから。
既に呉に戻ってしまった姫、孫夫人は、彼の主・劉備とは仲が良かった。夫婦というよりも、親子としての情を交わし、またお互いがそう望んでいた。
かといって、夫婦ではないことも無かった。はたから見ると不思議な関係だったが紀威には羨ましく思えていた。
毎日、明るく会話できることが夫婦なのか、と何処かで期待していたのだが・・・。
「眠れないのか・・・?」
珍しく臥所の上の趙雲が、椅子に座っている紀威に声をかけた。
「あ、はい・・・」
もう眠っていると思った彼から声をかけられて、驚いて答えたものの、鼓動が聞こえてくる。
細長い目を余計に細めた趙雲が、肘で体を支えて身を乗り出す。
「・・・具合が悪いそうだが?」
「いえ・・・それほどでは」
何か考えていた趙雲が、しばらくして言った。
「子・・・か」
え?と言葉の代わりに紀威の顔が訴える。
「・・・気がつかなかったのか。周りは騒いでいると言うのに」
誰かが趙雲の耳に入れたらしい。
趙雲も、彼女の変調に気づかなかったわけではないが。
「はぁ・・・申し訳ございません」
・・・確かにここ一月、何をするにも疲れるようになってはいたが。
周囲が先に噂していたという事実よりも、紀威にとっては腹に子が、愛する者の血を引く生命が宿ったことに驚きと幸せと不安に襲われていた。
じっと、趙雲は、突然のことに狼狽する彼女を見つめている。
「もう休め」
「はい・・・」
臥所へ上がる紀威の動きは、先ほどと違って気遣いがみえる。
「・・・無理をするな」
その言葉に頷いたものの、病没し、また子を宿しながらも自害して果てた先妻達の事を思い、紀威の喜びはたちまち収まってしまう。
それを横目に、趙雲は溜息をついていた。
「・・・“代わり”ではない」
背を向けた趙雲が、後でぽつりと言った。
それが意味することに紀威が気づいたのは、趙雲が眠った後だったが、紀威は顔を覆って、しかし声を押し殺して泣いた。
「・・・一つ、の努力はしてみるが」
と、迎えてくれた時の彼の言葉が胸に響く。
自分の為に、言葉通りに不器用ながら、愛されていることを感じることが出来た。
愛して愛されることを望み、共に生きることを果たせなかった先妻達の分、生きていこうと誓う。
それが同じ男を愛した自分に出来ることではないか。
この生命、世に出そう。彼の腕に抱かせて、彼の、父となった笑顔を見よう。
紀威は、既に寝息の夫の背に手を当てて、そのぬくもりに浸った。
・・・翌年、紀威は子を産み、趙雲はその子に「統」と名を付けた。
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