名無き愛


 

「この紀威(キイ)は・・・子龍殿、貴方を慕っている」
と、趙雲へ華やかな笑顔と言葉を残して、孫夫人は船に乗り込む。
それを見届けた張飛は、母上・・・と泣いている幼い劉備の嫡子、阿斗こと劉禅を慰めながら、二人で話せとそっけなく、さっさと帰っていく。
残された女隊長・紀威はただ、茫然と長江の地平線に消えていく船団を見ていた。

一方、趙雲はまだその船団を睨み付けていた。
そして、横で茫然としている紀威を見た。
「・・・紀威殿。奥方はああ言っておられたが、貴女の本心はどうなのだ?」
一応、問いかけてみる。
「私は・・・」
愛する者を目の前に、紀威は戸惑う。
男勝りに鎧を身につけ、剣を差し、遠目に見れば美青年でも通るほど、その容姿は整ってはいるが、やはり、本物の“男”には適わなかった。
趙雲という存在を知ってから、彼女の日々は変わった。
毎朝、彼が現れるのを待つようになってしまった。

どれほど憧れただろう。
涼しげな目を、引き締まる頬を・・・その颯爽たる姿を。

「私は・・・確かに将軍をお慕いしております」
「確かに?」
「・・・私は将軍の枷になりたくはございません」
「枷とはどういう意味だ?」
「奥方様の言で私をお側に置いて下さるのであれば、私は将軍の前から消えます」
「はっきり言え」
「愚かな女ゆえお許し下さい。私は将軍、貴方のお心を欲しているのです」
「・・・つまり、俺が貴女を愛しているかどうかか」
「はい」
「愚問だ」
「・・・・・・・・・」
「なぜ、そのような問いをするのかわからん。女は夫となるべき男に寄り添えればそれで十分ではないのか?」
「お答えになってございませぬ」
「俺の質問に答えろ」
「・・・夫婦の道は苦難を分かち合い、喜びを共にすると言います」
「何をわかち合う? ・・・俺は貴女と夫婦としてわかち合うものなど何もないが」
「それがお答えにございますか・・・」
紀威はうつむき、口を閉ざした。
頭では理解できるが、胸は痛む。
かなわぬ願いだとわかっていたつもりだった・・・。

いつものように、厳しい眼差しで長江を見やる趙雲もまた黙したまま。
紀威はその背にすがりつきたい衝動にかられた。
己の誇りがさえぎるのは、ただの“女”で終わることゆえ。
たとえ一片であろうとも、この心を見てもらいたい。
女ではあるが男の愛玩物になりさがることだけは認めない。
決して頭を下げてまで愛する者の情けにすがりたくはない。
だが、押し殺し続けた心を吐露した今、紀威ははじめて自分を取りもどした気がした。
さわやかな風を、久々に快いと感じることができた。


長江の流れは変わらない。
「・・・なぜ、笑う」
「え?」
趙雲の言葉に、紀威は我に返る。
「笑っていましたか?」
「・・・・・・・・・」
眉をひそめる趙雲に、
「おかしいですね。笑ったつもりなどないのですが・・・」
と言い、
「やっと私の心を打ち明けることができたからかもしれません」
紀威は今度は彼に向けて微笑む。
自然に・・・心から。

「・・・貴女は妻に似ている」
趙雲はその視線を避けた。
「ご夫人がいらしたのですか?」
「一度ははやり病で、次は戦で亡くした」
「・・・・・・・・・・」
「病は仕方ないが、戦で俺は妻を見殺しにし、阿斗君をお救いした。跡継ぎを護ることが俺に課せられた役目だった」
「妻の腹には子があった・・・俺は子もろとも妻を捨てた。全ては我が忠義の為、この身も犠牲にする覚悟はできていた。妻も俺の性分を理解していた。足手まといにはなりたくないと常々言っていたが、その通りになった。妻は曹軍の襲撃に自刃して果てた。・・・それからだ。俺が妻と呼ぶ者を避けるようになったのは」
趙雲の顔にわずかな歪み。
彼の心の底には、手も届かない深く暗い悲しみに満たされているのだろうか。

「妻は俺を慕っていた。俺はその心を見ようとはしなかった。それでも妻は俺にいつも微笑み続けた。見ず知らずの男に嫁がされ、女はなぜ微笑むことができる?」
「それは・・・一つ一つ、愛することを始めるからではないでしょうか」
「理解に苦しむな」
「ほんのささいな思いやりでも良いのです。それから夫婦は絆を深めていくものだと思いますがどうでしょうか」
「紀威・・・貴女は自分を見捨てるやもしれぬ男を夫に持つことに不安はないのか?」

「もちろん、不安は十分にありますが、愛されぬ恐れに比べれば軽いものです」
「・・・正直な人だ」
趙雲は溜息をつく。そして、紀威に向き直る。
「俺は妻を迎えぬと決めた以上、貴女を正妻として迎え入れるわけにはいかぬ。名無き女として終わるが、それでも良いか?」
「はい。将軍のご寵愛を頂けるならば」
「・・・一つ、の努力はしてみるが」
「心得ております」
紀威は微笑んだ。それに応えて趙雲も少しばかり笑った。


・・・趙雲の館に入った紀威は、その後、二人の男子を産むことになる。

 


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