曹操軍の騒乱(?)を呼ぶ地、徐州のまた南の広陵には、士人・張紘がいる。
陶謙の誘いにも乗らず、独り、忠実に世間の常識(喪)に従っている。
母の在りし日を偲び、彼女を失った日々を心に刻みながら、静かに時を過ごしている。
親孝行な息子だ、真面目だ、と人は言うが、彼にしてみれば当然のことに過ぎない。
自らを産み出してくれた親を尊ばぬ者に、人の心などわかるはずもない。
そんな日々だが、都での彼の才能、人柄から発した名声は止むことなく、静かな日々に訪れる者も度々ある。
そして、また訪問者は現れたのだが・・・
「今宵で何日目になりますかな・・・?」
半月の元、その和らぐ光と小さな灯火に読書しながら、張紘は尋ねる。
諸人曰く・・・通りの清廉とした人であり、抑揚を抑えた落ち着いた声である。
手の入った樹木の間に、人の影が揺らいだ。
月夜にゆらりと浮かぶその者に、張紘は再び同じ問いかけをしてみた。
・・・答えはない。
読書の目をその者へ向けると、軽く頭を下げたように見えた。
体格よく、武に秀でた男だろう。
「口を閉ざす理由があるのでしょう・・・しかし、貴方が私の元へ訪れる理由もわからないのですが」
「・・・・・・・・・・」
答えはあるはずもなく、
仕方ない、と、張紘は読書を続ける。
影の男は、木々の間に立ったまま、微塵の動きもない。
幾日、こんな日が続いているのだろうか・・・?
張紘は月夜の訪問者が現れてから、彼と無言の会話をするようになった。
会話と言っても、視線で互いの意志がわかるわけでもないし、第一、男の目まで見ることができない。
ぼんやりと、人影がある。
ただ、それだけのことだが、何となく・・・男は害のある人物ではなさそうだと感じとれる。
・・・私に何を求めているのか?
「あら、またあのお客様ですか?」
いつの間にか近づいてきた妻の声に、我に返って茶を受け取る。
決して美人とは言い難いが、笑顔を絶やさず、かゆいところに手が届く、できた妻である。
「・・・不思議な方ですね。ずっとああして立っているだけ・・・あなたにご用ではないのでしょうか?」
「ふむ。何かを訴えたいのだろうが・・・私も未熟ゆえ、真意を得ることかなわず、だ」
「もうしばらく様子を見ては?」
「そのつもりだが・・・」
依然、男は立っている。
揺らぐことのない炎のように、真っ直ぐ立っている。
それからも彼の意志の強さが伺える。
・・・口無き者が語る真意は。
「・・・また客人が来るようだ」
張紘はかすかな大気の変化を感じて言った。
夫人は、いつものように「わかりました」と答えて部屋を出る。
静寂の彼方から、馬蹄が大地を蹴る荒々しい音が響き渡ってくる。
が、どうやら一騎らしい。
また、怒気を含んだ陶謙に下知された使いだろうか?
・・・その割には、トゲトゲしい空気が感じられない。
「・・・どうやら、これが貴方の真意ですな」
男の影が頷いたように見える。
家門の前で、馬のいななきが聞こえた。
「夜遅く、申し訳ないッ!!」
言っていることと、叫んだ声の大きさは正反対である。
家人が慌ただしく走っていく。
・・・男が動いた。
「行かれるのですか?」
背を向けたような男へ、張紘は尋ねる。
『お頼みします』
太く腹にくるような声だった。
張紘は慌てて立ち上がったが、男の姿は闇へ溶け込んでいく。
門前では若者が何か大声で喋っている。
取り次ぎに、また家人が走ってくるようだ。
忙しくなるな、と張紘は小さく笑った。
「貴方の真意、見てみましょう。・・・・・・孫文台殿」
張紘は衿を正し、男が消えた闇へつぶやいた。
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