七、口無き者

 

曹操軍の騒乱(?)を呼ぶ地、徐州のまた南の広陵には、士人・張紘がいる。
陶謙の誘いにも乗らず、独り、忠実に世間の常識(喪)に従っている。
母の在りし日を偲び、彼女を失った日々を心に刻みながら、静かに時を過ごしている。
親孝行な息子だ、真面目だ、と人は言うが、彼にしてみれば当然のことに過ぎない。
自らを産み出してくれた親を尊ばぬ者に、人の心などわかるはずもない。

そんな日々だが、都での彼の才能、人柄から発した名声は止むことなく、静かな日々に訪れる者も度々ある。
そして、また訪問者は現れたのだが・・・


「今宵で何日目になりますかな・・・?」
半月の元、その和らぐ光と小さな灯火に読書しながら、張紘は尋ねる。
諸人曰く・・・通りの清廉とした人であり、抑揚を抑えた落ち着いた声である。

手の入った樹木の間に、人の影が揺らいだ。
月夜にゆらりと浮かぶその者に、張紘は再び同じ問いかけをしてみた。
・・・答えはない。
読書の目をその者へ向けると、軽く頭を下げたように見えた。
体格よく、武に秀でた男だろう。

「口を閉ざす理由があるのでしょう・・・しかし、貴方が私の元へ訪れる理由もわからないのですが」
「・・・・・・・・・・」
答えはあるはずもなく、
仕方ない、と、張紘は読書を続ける。
影の男は、木々の間に立ったまま、微塵の動きもない。

幾日、こんな日が続いているのだろうか・・・?
張紘は月夜の訪問者が現れてから、彼と無言の会話をするようになった。
会話と言っても、視線で互いの意志がわかるわけでもないし、第一、男の目まで見ることができない。
ぼんやりと、人影がある。
ただ、それだけのことだが、何となく・・・男は害のある人物ではなさそうだと感じとれる。
・・・私に何を求めているのか?


「あら、またあのお客様ですか?」
いつの間にか近づいてきた妻の声に、我に返って茶を受け取る。
決して美人とは言い難いが、笑顔を絶やさず、かゆいところに手が届く、できた妻である。
「・・・不思議な方ですね。ずっとああして立っているだけ・・・あなたにご用ではないのでしょうか?」
「ふむ。何かを訴えたいのだろうが・・・私も未熟ゆえ、真意を得ることかなわず、だ」
「もうしばらく様子を見ては?」
「そのつもりだが・・・」

依然、男は立っている。
揺らぐことのない炎のように、真っ直ぐ立っている。
それからも彼の意志の強さが伺える。
・・・口無き者が語る真意は。


「・・・また客人が来るようだ」
張紘はかすかな大気の変化を感じて言った。
夫人は、いつものように「わかりました」と答えて部屋を出る。
静寂の彼方から、馬蹄が大地を蹴る荒々しい音が響き渡ってくる。
が、どうやら一騎らしい。
また、怒気を含んだ陶謙に下知された使いだろうか?

・・・その割には、トゲトゲしい空気が感じられない。

「・・・どうやら、これが貴方の真意ですな」
男の影が頷いたように見える。
家門の前で、馬のいななきが聞こえた。
「夜遅く、申し訳ないッ!!」
言っていることと、叫んだ声の大きさは正反対である。
家人が慌ただしく走っていく。

・・・男が動いた。
「行かれるのですか?」
背を向けたような男へ、張紘は尋ねる。
『お頼みします』
太く腹にくるような声だった。
張紘は慌てて立ち上がったが、男の姿は闇へ溶け込んでいく。

門前では若者が何か大声で喋っている。
取り次ぎに、また家人が走ってくるようだ。
忙しくなるな、と張紘は小さく笑った。


「貴方の真意、見てみましょう。・・・・・・孫文台殿」
張紘は衿を正し、男が消えた闇へつぶやいた。

 

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