序章、覇軍の王(一)

 
ただただ、恐れる者に罪被せ、人よ、我が名を讃えるべし。
我こそは、覇軍の王。天の捨てたる、大地の子なり。




初平二年(191)、二月。
白の「孫」の字が紺の旗にうっすらと浮かんでいる。一列に続く紺の軍兵は闇に紛れている。戟や矛の刃に、たまに覗く月の光が当たると、次々と煌めく。
軍将兵一人一人の顔に悲壮感があまり無く、あるとすれば、挑戦的。
その先頭の牙旗の下、
「文台殿」
「おう」
呼ばれて孫堅は吼えるように応えた。その赤羽を飾った兜の下にあるのは、顎が広い顔。虎のような髭が生え、肩幅も人一倍広い。
中平元年(184)の張角率いる大規模な黄巾の乱にあたり、東部での討伐にあたった群雄の一人。十七歳の折、銭塘でたった一人で海賊討伐を成し遂げたことで有名になった将軍である。
「そろそろ[各隹]陽も目前ですから、小休止しませんかぁ? 斥候も戻ってくる頃ですからな」
大きな口をさらに大きくして、黄蓋が言った。
「ん・・・そうだな」
手を挙げて孫堅が軍を止め、紺の小さな旗と頭に白羽の飾りを付けた伝令が「小休止」と叫びながら後方へ駆けていく。
敵地を前にしての小休止。緊張、武装までは休めない。
しばらくして、中軍から、韓当に任せて程普がやって来る。細い眼が素早く周囲を見回し、最後に孫堅を見、頭を少し下げた。
最後尾、孫堅の甥孫賁は来ない。代わりに愈河が来た。太い真っ直ぐな眉を上げて、孫堅や黄蓋、程普らへ丁寧に礼を取ると、彼らの後ろにいた孫策の隣に控えた。
孫策・・・孫堅の嫡男、この遠征に際し、付けた字は伯符。母似で、顔は柔らかな雰囲気を持っているが、その性格、行動力は父譲りと評判があがっている。
孫堅、黄蓋、程普の三人が雑談している後ろで、愈河と孫策も一言二言、言葉を交わしたものの、[各隹]陽を間近にしたせいか、互いに緊張から言葉が出なかった。


[各隹]陽は漢の首都である。(後漢)光武帝の再建(前漢以前から都城機能存在)以来百五十年を経た壮大な宮城が広がっていたはずである。
・・・長沙より北上した孫堅は、魯陽で袁術と会見した後、梁で帝劉協と都を牛耳る太師董卓が放った軍の襲撃を受け、一度は命からがら逃げ延びたが、陽人での再戦では都尉の華雄を斬っている。
慌てた董卓の和睦を蹴り、[各隹]陽まで九十里(約37km)の大谷まで進んだのである。
董卓は[各隹]陽に火を放って、王墓を暴いた末、長安への遷都を強行した。
そして、今、孫堅は、その廃都となった[各隹]陽を視界の中へと入れつつある・・・。


「父上・・・」
雑談も落ち着いた頃、孫策が声をかけた。
「・・・董卓は遷都を決行してから、都は歴代の王の墳墓を暴いた上、火を放ったと聞きましたが」
「おそらく、何もあるまいな・・・死体以外は」
淡々とした答えだった。
孫堅の側へさらに馬を寄せて、孫策が尋ねる。
「それなら、[各隹]陽に入るより、間道を通り、長安へ行き、董卓が完全に長安を治めてしまう前に軍を挫く方が・・・」

「それが一番天下の為だろう」
「?」
孫堅は一本の指を、孫策の顔の前に突きだした。
「・・・一つ。あやつは我らの勢いの強さを眼の辺りにし、熟慮した上で、身辺を固る為、遷都をやらかした。追跡を考えて途中や長安には相応の備えを敷いているはずだ。これにはよほどの精鋭を送り込まねばならぬ。・・・奮武殿も敗退したと言うからな」
「・・・武具馬具もままならず、兵もほとんどを失い、帰還時には哀れだったと」
董卓打倒の激を飛ばした自称奮武将軍・曹操。官兵を持ちながら、酸棗に集うだけ集って動かぬ諸将に愛想尽かし、手勢五千のみで進撃、一人力戦したが結局及ばすに戻ってきたのである。
皆が皆嘲笑う中、曹操は引き上げていったが、孫堅も[各隹]陽へ進撃の最中にそれを聞き、詳細を知れば知るほどに、恐ろしさを覚えていた。
「・・・あの男の小さい体には十分に詰め込まれた知識がある。相当切れる」
「ですが、頭だけでは戦は出来ません」
「そこだ。重要なところは。・・・曹操という奴も昔は好き勝手なことをしていたらしいが、黄巾の戦いで頭角を現した。実際は、机上の学を戦に持ち込んでも勝てぬ。・・・だが、曹操はそれを実践している。異常に勘が冴えるとも聞く。おそらく、・・・俺のように、戦の味を覚えて、やみつきになっているのかもしれんな・・・」

孫堅は笑っていた。戦を好む将来の好敵手か、敵を前に恥を掻くのを嫌ったのが似ているとでも思ったのか。
孤独な酒に、もたらされた肴は格別。
孫策の頭に一人酒に浸る、父のもう一つの姿がたぶった。

「あ・・・」
黙って孫堅の哲学を聞いていた隣の愈河が声を出した。
「油断大敵」
両眼に向けて、二本の指が迫ってきた。思わず仰け反った孫策へ、孫堅が意地悪く笑った。
「話がそれてしまったが・・・」
何事も無かったように孫堅が喋り出す。
「[各隹]陽はこの天下の中心、国の要衝。文化や物、人の憧れるモノ全てがここにある。・・・まぁ、焼けてはしまったが・・・しかし、我らがまず抑えねばならんのは[各隹]陽なのだ」
「しかし・・・天子の居都こそが天下の都ではないのですか?」
愈河が口を挟む。
「その通りだ。・・・董卓は天子を放さぬ以上、我らは常に反逆の勢。だが、天下の民は我らを迎えつつある。わかるか?」
「董卓の圧政の為ですね」
「いや少し違う。“漢”の圧政だ。董卓はその象徴に過ぎん」
きっぱりと孫堅が答えた。

「殿・・・お声を」
程普が眉を潜め、周囲を伺う。
聞こえなかったか、聞こえぬ振りか・・・周囲の眼はこちらを伺っていない。
孫堅は程普に小さく頷いて、孫策と愈河を見やった。
「漢は・・・滅びる。こうして兵を送り込んでいるのは天下に名を売る為。皆が探しているのは覇道の大義だ」
「董卓は・・・」
「皆が望んでいるのは、表向きは天子奪回。だが、本音は、董卓に託している・・・」
「何をですか?」
孫堅がぼそっと呟いた。
「・・・お隠れ、だ」
ぞっと、背筋が凍る。
孫堅は言わないが、連合軍の盟主袁紹にも天子擁立の不穏な動きがあるのを知っている。

不安を見せた孫策と愈河へ、孫堅は続ける。
「四百年という時は長い。・・・漢皇劉家の血というものは、その間に貴重な宝と化した。元々は、そこらに転がっている石と同じだが、「高祖」という石が少し違った色をしていたのだ。その違った色の珍しさが貴重な宝と錯覚させてしまった。・・・他に少々違った色の石を見つけようとも、最初に心に刻み、思い込んだ石だけが世間では有り難くなった。ゆえに、同じ色の石をまた拾わねばならぬ。「高祖」や「光武帝」という特別な石では扱いに困る。・・・ただの「劉」と名の付いた石が良い」

「しかし、そろそろ飽きがきているのも事実。人は元々飽きる生き物。それでも、「劉」と名の付いた石を持っていれば誰もが羨む。持つ者は偉いとまだ錯覚している。・・・民は、とっくにそんなものに飽きているのだ。新しい色の石を見つけてくれないか、待っているのだ・・・」
「待っている?」
「・・・ああ、民は待っている。幼子と同じで次々と変わったものを欲しがる。特に、苦しみを抱えてくれる新しい石を、怨嗟にも耐える都合の良い石を・・・」
そこで孫堅の言葉は途切れた。
「[各隹]陽の方角から、騎馬隊が近づいております!」
夜眼の利く見張りが北を向いて声高に叫んだからである。

 

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