明華 |
「生きて、生きて、生き抜いて・・・」 私はその言葉を馬鹿にしていた。取り合わなかった。ただの弱者の戯言だとばかり思っていた。 年の離れた男に嫁がされたのが嫌で、ずっと兄を許せなかった。国の為になるからこそ、この身を捧げたのだと無理に思い込ませていた。 夫になった男は、よく話しかけてきた。いつも笑いながら・・・それがいやらしくて感じて、触れられた時も、鳥肌が立った。 夫になる男は・・・もっと若い青年を願っていたから・・・。 それでも、夫は毎日話しかけてきた。仕方なく、少しずつでも私も話すようにした。 自分を悲観しているだけでは始まらないと思ったから・・・。 なのに・・・ 後宮に入ってきた劉備が、薙刀構える新妻孫臨(孫権妹)の侍女を見つけて話しかけている。 「姉ちゃん・・・あんた幾つや?」 「は? ・・・私は二十九になります」 「二十九!? 結構年増なんやな・・・」 眉がヒクッと動いた侍女に、劉備は舌を出して、 「・・・そんだけ、べっぴんやったら、呉でももてたやろ?」 ひるんだ侍女を放っておいて、劉備が奥に入っていくと、男装の護衛隊長・紀威が丁寧に一礼して迎えた。 七尺五寸の女傑は、甲冑を着こなして、腰には長刀を携えている。 「あんたも大変やわなぁ・・・」 「は・・・」 「・・・あのな」 「は?」 「たまには、愛想良くにっこり笑って出迎えたらどうや? キツイ顔やけど、ええ顔しとんのに。・・・臨がやっと、俺に馴染んでくれてほっとして・・・あっちの連中かて、笑っとったやろ?」 「はい。申し訳ございません・・・」 唯一、満面の笑みを出さない紀威である。 「子龍を女にしたらあんたみたいになるんかな・・・」 黙っていたが、紀威の口に、柔らかな笑みが静かに浮かんだのを劉備は見逃さなかった。 「ま、後は頼むわ・・・」 紀威に見送られて、劉備は孫臨の待つ室に入った。 「な・・・何や?」 足元に散らばっている書簡や布に書かれた地図のもろもろに唖然としている劉備。 「あ・・・お帰りなさいませ。 そっちの地図を取って下さい」 主人の帰り早々、命令かいな・・・と劉備は思ったが、踏みつけていた地図を拾った。 「おい、これ・・・冀州の地図やないか、こんなもんどないすんねん?」 「勉強です。あなたの仰っていたことを確かめたくて・・・、諸葛軍師には許しを得ていますのでご心配なく」 「手回しの早いことで・・・」 「あなたが欲しいものは、趙将軍を経由して伝えればいいと仰ったでしょう? こちらで内々に揃えるとまたあなたが困るでしょうから・・・」 「ま、まあな・・・しかし、よお、これだけ揃えられたもんやな・・・怪しまれんかったか?」 いつの間にか、棚が一つ増えている。 「所詮、女の道楽程度にか思われていませんので、良いものはありません。一般に流布しているものでしょう、これも」 「・・・お前、字読めたんやな?」 「失礼です。孫家の教育はあなたほど低くありませんので」 「へえへえ・・・貧乏育ちですから、わしは」 そう言って、劉備は冀州の簡略な地図を、孫臨に渡してやった。 あれだけ劉備を嫌っていた孫臨は、このところ正反対に劉備の話を聞きたがる。劉備の各国の群雄をさすらってきた話は、孫臨の興味を強く惹いている。劉備の方も真剣に聞いているものだから、毎晩遅くまで話してやっている。たまに、子守歌になっていることもあるが・・・。 「・・・今日は、いつの話したらええんや?」 「この間の曹操と袁紹の決戦の話・・・をして頂けると助かります」 まじまじと見入っている孫臨の姿に、からかう気も起きなくなって、劉備も地名に指をさしながら、話を始めた。 孫臨が、劉備の右手の動きを確かめていると、手のうちに幾つかの傷痕があったので、ふと地図の端を持つ劉備の左手を見ると、その指が短く変形している。 「その指・・・?」 「何や? ・・・あ? 今頃気付いたんか?」 差し出された左手、人差し指と中指、正常の爪にあたる部分から先の肉が無く、爪も肉の間からまるで獣のような尖った生え方をしている。 孫臨は息を止めた。 普段、話している時は、ごく自然に振る舞って、その指をいたわる仕草の一つも無く、彼女を抱く時も、かばっていたのだろう・・・。 ・・・気付かなかったのは、真っ正面から見ようとしていなかっただけのこと。 「いつ・・・」 「・・・これなぁ、長阪で逃げ回っとる時に、やられてもうてな・・・」 「ど、どういう風に?」 「どういうって、お前・・・剣振りまわしとって何とかしのいで・・・馬がぶつかってそん時に、敵さんの刀がこの指の先、スパッと飛ばしてもうたんや・・・何でか三本目は上手く曲げとったから取られんかったけどな」 劉備は笑いながら、左の薬指を、右の人差し指でつつく。 「ま、あん時は敵さん突き飛ばさんかったら、この首すっぱりいかれてたやろし・・・こんなもんで済んだだけでも、めっけもんやろな・・・」 「・・・やっぱり、痛かった、・・・でしょう?」 「痛かったがな・・・最初は逃げるだけで精一杯やったけどな。血はだらだら止まらんし・・・後で医者がおったからすぐ診てもうて・・・泥が付いてたから、最悪、この二本諦めて下さいって言われた時は、どうなるか思うた・・・」 「切り口は・・・?」 「おお・・・上手いこと縫ってくれたから助かったんやわ・・・ほんまに医者さまさまやで」 「でも・・・縫った時も、痛んだのでしょう?」 「だから、痛かった言うてるやないか・・・脂汗出て気失いそうやったわ・・・何回ふらっていきそうなったか・・・」 孫臨はうつむいた。 父、堅が亡くなった時は、まだ実感がつかめなかった。ほとんど顔を見なかった父。 長兄、策が刺客に襲われて亡くなった時は、刺客を憎んだ。これからもっと剣を教わろうと思っていたのに、と。その時、兄の性急さが招いた結果だと噂が起こり、それがどれだけ悔しかったことか。 ただ、棺に収められた遺体からは、現実を感じられなかった。綺麗な顔で後事を託して安らかに終わってしまった。 次兄、権は不憫に思うのか、彼女を過保護なぐらいに溺愛してくれたが、彼も現実に対面している。彼女には見せぬよう、気を遣ってくれているが、国政に対する兄の悩みは、どんなものかもわからない。 何となく、蚊帳の外に置かれ、現実に触れることが出来ず、腹立たしかった。 が、今、目の前の男は、その現実を隠さない。聞けばすぐ答える。 現実の一つ・・・戦は、思った以上に厳しい。今まで、深い傷を負った者など何人も見てきたが、それに直接関わることは無く、すぐに離された。 姫君だから、と皆は言う。 だが、その姫君は何を出来ると言うのか? 幼い頃からいつも厚く護られて、成長してから年の離れた男に嫁がされて、ただ流れていくだけで、逃げ回って、拗ねていただけの女・・・。 孫臨は両手で劉備の左手を取る。 劉備は何をするのか様子を見ている。 ・・・獣のような爪も真っ直ぐでなく、ぐるりと内に食い込むように曲がりこんでいる。切るのは大変な作業だろう。 孫臨は首を振り、その左手をそっと自分の頬に押し付けた。 面食らって、劉備は言葉も出ない。 「ごめんなさい。私・・・何も知らなくて・・・知らなさすぎて」 孫臨はそれ以上言えずに、涙をこぼし始める。 しばらくそれを見つめて、劉備は右袖の裾で彼女の涙を拭いていく。 「・・・お前はほんまは優しい子なんやな。いつも好き勝手にやっとるけど。・・・でもな、これはわしらが勝手にやっとる戦なんやから、お前が気にすることないんや・・・」 「でも・・・私は呉の人間・・・」 「それがどうしたっていうんや? 今はわしんとこに来たんやろ? お前も辛い立場や思うけど、嫁として来たんやから、開き直って・・・今まで通りに「私は孫家のお姫さんよ!」って、堂々と振る舞っとったらええ・・・」 眼を開けると、いつものように、劉備は笑っている。今までよく見ていなかったが、右の眉の中央にも、線が入っている。 厚みが出始めた瞼で、お世辞にも若い者のような澄んだ輝きは無いが、劉備の眼には、年の翳りだけは無い。 ・・・この眼は何でも知っている。見通している。だからこそ、優しい眼なのだ、と孫臨は始めて気付いた。 ただ、寂しそうに見えるのは、なぜかわからないが・・・。 劉備は視線を逸らし、孫臨の頭を、己の胸に押し付けながら言った。 「臨。お前が泣く必要ないんや・・・綺麗な顔してるんやから、笑っとったらええ・・・泣き過ぎて顔が崩れてもうても、わし責任取らんからな・・・」 孫臨は何度もうなずいていたが、涙は止められなかった。 ・・・私は何も知らない。世間を知らない。戦を知らない・・・この人の事を何も知らない・・・・・・。私が想像出来ないぐらい苦労して、だから、私のワガママにも笑っている・・・。 ・・・恥ずかしい。許されない事ばかり言って・・・私は、ただの無知な小娘・・・。 牀台の上、泣き続けて眠ってしまった孫臨の髪を手で梳きながら、劉備は彼女の耳へかすかな声でささやいた。 「・・・お前は何も知らん方が、幸せなんやから・・・わしみたいな男の側におらんでええんやで・・・臨」 孫臨はくすぐったそうに肩をすくめて、寝返りを打ち、劉備はその寝顔を見ながら微笑んでいた・・・。 劉備善人ぎみで純愛物になってしまいました・・・。この二人はすっごく好きなんですが、書いていて恥ずかしかった(笑) |
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