想人(おもいびと)


 

逢いたい。と、心に強く想うのは・・・、恥なのか。



建安十九年(214)夏。劉備は成都を陥落させ、益州を手に入れた。
その喜びも冷めぬというのに、劉備の苦戦に荊州から援軍に来た部下の一人は、その精悍な顔を冴えない色で塗りつぶしていた。
古参の臣となりつつある趙子龍だった。


「子龍。このところ冴えない顔ばかりしてんな、お前」
山と積み上げられた書簡に呆れ返って手も出ない劉備が、現実から逃げるように、ちょうどやって来た趙雲に言った。
「は・・・申し訳ありません」
その手にも、しっかりと報告の書簡が握られており、それを見た劉備は溜息を連発した。
「荊州に置いてきた嫁さんが気になるか?」
劉備が趙雲からそれを受け取りながら尋ねる。
趙雲は、いえ、と否定出来なかった。劉備が素早く見上げる。
喉が詰まった。否定しようとする事が罪に感じた。
趙雲は悔しいとばかりに顔を伏せる。勤務中に、ふわふわと女の事で浮ついていた自分が信じられなかった。

「お前も人の子・・・やったんやな」
劉備がしみじみと言った。趙雲が顔を上げた。
「長坂での戦以来広がった噂、お前知ってるか?」
「・・・存じております」
趙雲の身籠もった妻が、あの時、彼の足手まといにならぬよう自刃して果てたことである。
曹軍来襲に、民衆の叫喚が渦巻いた中、劉備や趙雲の眼前だった。
・・・崩れ落ちる妻の体をただ見つめて、眉一つ動かさず、抱き起こすことも声をかけることも無く、遺体をそのままに踵を返し、劉備の子、劉禅阿斗と今は無き甘夫人の護りに付いた。
冷酷な男、感情のない鬼だと、軍中では彼をそう呼ぶ声もある。
趙雲はそれに反論もせず、放置した。
面と向かって誹られることは無いが、冷ややかな人間としての軽蔑の眼差しを受けることも多々ある。
彼に窮地を救われた甘夫人も、言葉では感謝を表したが、一歩引いて恐れを抱くようになった。新野で温かな眼を向けていた彼女でさえも・・・。
否定はしない。劉備に従い新野の小城に入ってしばらくして娶り、我が子を身籠もっていたその女を、戦場とはいえ、簡単に見捨てた自分を・・・心も揺れず、涙も出なかったあの感情の欠落を。

「玄徳殿・・・私は、女を愛することなど知りもせず、知ろうともせず、この歳まで生きてきました。しかし、今はまだこの益州も落ち着かぬというのに、愚かな事に捕らわれて、貴方に申し訳なく・・・」
「それは違う、子龍」
「男が女に惚れて、一体何が悪いんや。 女に惚れて悪いんやったら、この世にガキなぞできんやろ? ・・・まぁ、女は子供さえ作ったらええと世間は言うけど、そんなもんでもないやろし。あ・・・ころころと懲りもせず、女ばっかり変えとるわしの台詞は説得力ないやろけどな」
劉備は笑っていた。いつものように、笑いに転化しようとしている。
女を次々と変えねばならぬ事情が彼にもある。傭兵同然の暮らしを好いていたとはいえ、彼こそが、家族を見捨てて、誇りも捨てて逃げ込んで来たか、と何度、世話になった群雄や、その配下らに言われ続けたことか・・・。その度に、
「いやぁ、不甲斐ないもんで・・・」
と笑いを誘っていたが、その心中はいかばかりか。男と生まれて、悔しくないはずもなく、この女こそと決めた者でさえ失って、新妻だった江東の姫君ともようやく上手くいきかけたと言うのに、また別れる羽目になり・・・。
そうなると趙雲自身の悩みの方が馬鹿げているように見える。

「わしに遠慮すな、それこそいい迷惑や。命がけで子供助けてもろうた恩人にそんな顔してられるとこっちまで鬱になるわ。そやろ?」
「しかし・・・仕えている以上、当然の事・・・、」
「もうええ、やめ」
手を振った劉備の顔に少しばかり苛立ち。
「お前は相変わらず堅物やな。・・・迷惑や言うとるやろ? ・・・さっさと嫁さん呼んで、また子作りに励むこった・・・な、子龍?」
趙雲は深く頭を下げた。言葉が出なかった。
さらに劉備は続けて、彼の涙を誘った。
「・・・子供が産まれた報告に、わしんとこ来たやろ? そん時のお前の笑った顔、良かったぞ。・・・お前でもあんな嬉しそうな顔するんか、ってな。・・・わしな、正直、お前のそんな顔が見れてほっとしたんやわ」

ただ、最後がいけなかった。
「あの嫁さん・・・お前がそれだけ入れ込むんやったら、よっぽどあそこの具合もええんやろなぁ。・・・わしにちょこっとだけ貸そうと思わへんか?」
「思いません」
即答。むっとした趙雲の顔を見て、
「冗談、冗談に決まっとるやろ。・・・そんなに怖い顔せんでも」
・・・これさえ無ければ、いい主なのだが。
趙雲の胸中は余計な事でさらに複雑になってしまった。

劉備は成都に入ってから早々に、未亡人だった穆夫人を後宮に入れている。何のためらいも無かったのかは本人でなければわからぬことだが、ただその心の一片でも、過去の女達に向いていると信じたい。
自らも、罪の償いとして、側女となった紀威に妻としての名を与えなかった。
その代わり、彼女を愛そうと努力はしていたつもりだった。が、その努力も今は必要ない。

「一つ一つ、愛することを始めるからではないでしょうか」
・・・あの言葉の通りに、少しずつ積み重なっていたのだろうか?
お前の想いに応えていたのだろうか・・・?


武骨な男が筆を握る。
長い報告書を書くよりもはるかに短い文を、竹簡に懸命に綴っている。
名無き女と、我が子を呼び寄せる為に。
新しいと言っても、数月も経った刃傷を刻んだ手を動かして、言葉を文字に代えている。
気を付けて来い。これが精一杯の想い。



・・・紀威。統を連れて、早く来い。
この歳になって、女を愛しいと想うなど、馬鹿げているのかもしれないが、それでもいい。
お前をこの腕で抱いてやりたい。・・・抱きたい。

紀威・・・、お前に逢いたい。

 


・・・劉備出すと笑いをとる体勢に入るので、収集に苦労します(笑) それにしても、お題の短編によく出てくるな、この人。

四十半ばの趙雲(生年168年ぐらいの設定・・・曹仁と一緒だ(笑))がこんな純愛貫くかわかりませんが、恋愛表現って女だけの特権じゃないだろうと、先の紀威視点の方から思いつき、また勢いだけで書きました。戦に明け暮れて、ふと気づくと甘えたくなる女もいない・・・ってのは寂しいことじゃないか、とか色々と考えたんですがどうも・・・。今回、男女別々の視点で書いてみましたが、それぞれ上手くいったのかわかりませんが、点と点が一つの線で繋がるような、そんな話にしてみたかったんです。
=2004.4.27=


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