怨恨の地 十七、逢

 

張誠の言葉に押し潰された許チョは、曹操の本隊が到着する前に、逃げるようにケン城を発った。
このまま留まって、帰順を願い出ようかとも思ったが、迷いに迷って中途半端になりそうだったことと、[亠兌]州の戦乱の余波が[言焦]に来ないとも限らない。
とりあえずは、[言焦]に戻って、じっくりと自分自身を見つめ直そうと思った。

だが、[言焦]の自邸に戻った許チョを待ち受けていたのは、例のごとく妻だった。
女の恨みは深いと言う。許チョはまた日頃の深い嫉妬を根強く燃やしているだけか、とタカをくくっていたのだが、それが誤りだったことを痛く思い知ることになる。


妻との始まりは、亡き父の忠が外遊びが過ぎる事と、いい加減成人して落ち着かせる意味合いで、結婚の二字をよく小言のように浴びせられた為に、やけになって、婚約も何もなく、豪商李岱の手引で、そこそこの出の女を娶った。正式には、買ったのだが。
正直、彼にとって、家に“妻”というお飾りがいれば、世間の体裁さえあれば、それで良かった。

その頃の情勢は、曹仁が曹操に従って[言焦]を出ていき、彼と共に従っていった若者の労力減を、いくら曹家の勢いで保っていたとはいえ、街の活気さえも失せつつあったのを、何とかして立て直さなければならなかったのだが、
突然、父は病死、兄は隠遁生活に浸り、跡継ぎとしては彼が的となった。・・・一時は、許家の恥知らず、無法者、と蔑んでいた親族も、手のひらを返して、彼を推した。
あまりな顔色の変化に、怒りを感じるばかりだったが、それ以上に、若い、甘い、野望は、一族を統べるという魅力に負けた。
その甘い罠が、どれほどの辛さを含んでいたか・・・。語るのは、彼の全身に残る戦傷。
戦うことでしか、彼の心は表現できなかった。

女は、そんな男の苦労などわかりもしない。まして、表向きでも名家とあれば、たいそうなお飾り。身に付けた者によって、良くも悪くもなる。
許チョの妻の場合、後者だった。自らの生を嘆いてまで、夫に対抗した。後でわかったのだが、彼女には恋人がいたらしい。良き青年で、彼女と夫婦になる約束までした仲だったとか。
その為、妻は夫を夫と認めず、夫はそんな妻を嫌う。はなから、がさつな男を嫌っていたのだから、相容れる事はなく、ますます外に出る夫に悪口雑言浴びせるまでになっていた。
離縁すれば良かったのだろう。
・・・そんな折り、彼女が妊娠しているのを知って、許チョも思いとどまった。が、あえなく、流産してしまった。その後、落胆から衰弱の身となり、外出することもままならなくなった妻を、許チョは妻として、置いておくことにした。一年経ち、体は回復したが、そのままになっていた。
側室を置くことも考えたが、彼女の深い嫉妬心から出来ず、外で処理することにした。子の問題はそのうち、と軽く考えていた。

ズルズルとしているうち、反董卓連合軍の結成と解散に揺れ、その後、葛波の賊が手薄の[言焦]を好餌と、大群で押し掛けてきたのを何とか退けたが、曹操の徐州遠征が敢行され、呂布がその留守を狙い、曹操と対立状態。[言焦]に残る曹家も生き残りに必死で、百姓などを顧みる余裕はない。
目まぐるしい勢いで、[言焦]と、自分が渦に巻き込まれているのはわかっていたが、それをどうすることも出来ず、他人の争乱にただ、巻き込まれているだけなのが、口惜しかった。


その口惜しさを誰かに訴えたかった。わかってもらいたかった。
なのに、妻は・・・彼を蔑む。
その妻の名は、丁紡。


久々に、許チョは、丁紡にあてがった奥の室へ、たまには、と顔を見に行った時だった。
丁紡は、嫁いできた時から着ている、繕いある薄い絹の上衣を肩にかけ、窓からぼんやりと、家奴の雑穀する様子を見ている。
まとめた髪の根元に、白髪が幾本かあった。まだ二十三歳の若さだが、もう三十か酷いときは四十近くの女に見える。また、やつれたな、と思った。
丁紡は、やってきた夫に、簡単に帰宅への挨拶だけはし、真新しい眉間の傷痕にしばらく眉をひそめると、すぐまた外を見た。
許チョも何も言わず、すぐに出て行こうとしたが、思い直して側に座った。
家奴の子供らが、稲の穂をかついで、わいわいと騒ぎながら運ぶ姿に、彼女がふっと笑ったのを見たからである。

「旦那様」
あなたとも、名も呼ばず、家奴と同じように、そういつも彼を呼ぶ。
許チョはそれが皮肉だとわかっている。金で買った、体面と性欲の為の奴隷だと、強く訴えていることを。
「・・・旦那様は、一体何をしているのでしょうか?」
冷たく棒読みのように、抑揚のない、いつもの丁紡の声。彼に対してだけ、一番冷たい声。
「・・・何を?」
「張誠とかいう、あのお隣の用心棒にも嫌われて、貴方のやり方に賛同してくれる方がいなくなってしまったのではありませんか?」
「俺のやり方が嫌になったのなら、もうみんないなくなっているはずだ」
「そうでしょうか。・・・こんな食べ物にも困る有様で、流浪することは、賊にでもなれば別ですけれど、死にに行くようなものですもの。願って、外には出て行きませんわ」
「・・・それは、内心では俺に愛想を尽かしていると言うことか?」
「その通りですわ。旦那様の、常から矛盾している態度を、誰が心から受け入れてくれるものですか・・・」
「何の矛盾だ?」
「・・・貴方は、ご自分が正しいと思っているのでしょう? 貴方の思うとおり、世の中が動けば、貴方は悩むことはないのでしょうから・・・! 貴方は確かに、武器を取ればお強いのでしょうけれど、人を思いやる気持ちもお持ちでないのに、人を束ねようとなさる。そのような男に、誰が従いましょう・・・」
「現に、[言焦]が襲われた時、皆は俺に付いてきただろう」
それは、張誠に言われた言葉ではないか・・・と、許チョは気付いたが訂正しなかった。

ますます、丁紡の舌は動く。
「・・・貴方が利用されただけのことです。この[言焦]を守る為です。貴方の強さが必要だったからです。・・・しかし、曹家の人間が動いてくれたのでしょうか? あの時、義兄様が動かねば、一切関わろうとはしませんでした。貴方ご自身も、後に強い後悔を抱いておられたではありませんか・・・俺の勇など、使い切りみたいなものだ、と・・・」
「ああ、だから悩んでいるだろう」
・・・いつまで続ける気だろう・・・。
「卑怯です。貴方は卑怯な男です。貴方は悩んだ振りをしていればいいのでしょうけれど・・・私は全てを奪われて、ここに連れられてきたのですから、貴方のように、家族が安泰でいられるような、食べ物の為に売られることのない生活で、貴方に・・・」
畳みかける言葉が詰まった。
また泣くのか、声を裏返すのか、と思っていると、
「ばかばかしい。もう・・・いいですわ。感情を高ぶらせた女ほど始末が悪い、貴方の言う通りですものね」
かぶりを振って、丁紡が苦笑した。

いつもと違う。丁紡の怒りの絶叫が止んだ事など一度も無かったのに、・・・なぜ?
許チョの不思議なものを見る眼に気づき、丁紡は眼を逸らし、少し考えてからまた彼を見直した。
「私も女ですもの・・・」
初めて見た。丁紡の微笑み。
「女が、この意志で口にするのはおかしいのかもしれませんが・・・今宵、私と過ごして頂けませんか?」
ためらいがちに開いた口。頬のわずかな紅。
「本気か・・・?」
賤しい者、汚らわしい者、と散々蔑んできた女が、抱いてくれと言う。
「ええ。本当に嫌っていれば、あなたを見ただけでも鳥肌を立てるでしょうから・・・」
どうやら、軽い口は残っているようだ。なぜか、安心する。

「ただ、ご期待に添えるか・・・、体が治っているかどうか・・・」
心の傷は流れた記憶。当時は羅義を知らなかったので、別の医者の診察でも体に異常はみられなかった。
傷を抱き続けた悲しみに、許チョが気づくこともなかった。そう思いやる気も無かった。
「・・・その時は、その時だ」
あの時、自分にも、子が出来た事実に戸惑いと喜びを得た時、そして、失った瞬間に全ての未来が消えたような気がしたのを思い出した。


許チョは丁紡を抱いた。数年経っても、他の女を何十人も抱こうとも、彼女の体を覚えていた。
冷たい眼で、いつもされるがままでいた丁紡は、今宵初めて、彼の胸で、「嬉しい・・・」と、呟いた。

小さなこと、大きなこと、何でも互いに言葉にした。空けた時間を埋めるように、語り合った。言葉でしか伝わらぬものもあった。体で分かち合うこともあった。


三月後。小雪の降る晩、丁紡は静かに逝った。
許チョの見守る中、昏々と眠ったまま、逝ってしまった。
あの時、自分から初めて、抱いてくれと願った時には、既に死を覚悟していた。
病状が悪化した時、羅義から口止めの約束を破って打ち明けられたが、丁紡の体で、全てを悟っていた。
抱けば確実に弱る。それでも、許チョは妻の望みを叶え続けた。
肉の削れ、骨が鳴る体。息の続かぬ吐息。抱く度に、許チョは涙を流し、丁紡はその頬に手をやって諭し続けた。
「もうしばらくすれば、あなたの枷となるものは何も無くなります。あなたのご自由に、進むべき道へ・・・。あなたはこんな小さなところでうずくまっている人間ではないのですから・・・」



・・・それから二年、建安元年(196)、二月。
許チョは[言焦]を出て、隣郡、汝南周辺の賊を陥した曹操の元に赴く。

彼の腰には紅玉刀。振り返るものは何もない・・・。

 

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