好敵 一、従軍
 

建安元年(196)、二月。
曹操は、汝南と穎川一帯に蔓延していた何儀・劉辟・黄邵・何曼ら数万の黄巾軍を次々と破り、汝南に入った。
許チョが余波を受けていた[言焦]を兄の許定に託し、帰順の意向を伝えると、曹操は陣幕の外にまで彼を出迎えた末、即、武衛都尉という官を与えた。しかも、宿直で曹操の身辺を警護するという大役付きである。

同じ役目を与えられているのは、典韋という男。黄巾との戦いで功を上げ、武猛校尉に昇進したばかりだという。
噂を耳にしたことはあったが、眼の前に実物を見るのとは違う。
今、その男が許チョの初任務・・・天幕の側に立ったばかりの彼へ、色々とややこしいことを教えてくれている。

「で、気分はどうだ?」
まず、遠目にもそれとわかる体躯。許チョとあまり腰幅も変わらないようだが、声のでかさには負ける。彼の大きな口は真っ黒な剛毛で覆われている。歳は、四十を迎えただろうか。髪に白いものが混じっているところを見ると、もう少し上かもしれないし、神経を研ぐ任務の結果なのだろう。
[言焦]一の大漢と、密かに自負していた許チョも、考えを改めた。しかも、典韋の出身、己吾は[言焦]から近い。天下にはまだゴロゴロいるのだろう。
「まぁ・・・俺たちゃ殿をお護りするのが役目だが、あんまり意地になって突っ立ってると肩は凝るわ、足は棒になっちまうわだからよ。眠たい時はこっそり寝てさ・・・」
「・・・はぁ」
忠告するかと思いきや、どう息抜きをするかの助言が続くので、許チョもやや拍子抜け。
「・・・お前、俺をバカだと思ってんだろ?」
「い、いや・・・」
頭の隅で思ったと、答えれば良かったのだろうか。

典韋は、鼻を指で挟むように掻きながら、
「ところで・・・お前もおもしろい顔してたよな」
と、思い出し笑い。
「は?」
「あん時だよ・・・殿がお前にやらかしただろ?」
「ああ・・・」
諸将の見守る中、曹操と許チョは中央にいて、曹操は、ひざまづいている許チョに一通りの質問を飛ばし、終始笑顔だった曹操は、突然立てと促した。
立ち上がると、当然、小柄で痩せた曹操を見下ろす形になる。よほどのことでないと、長身の者を側に置かないと聞いたことがあるのだが、嫌がる素振りもなく、鋭い眼を細めて、むしろ余計に喜んでいる様子。
気づいたのは、その時、皆が笑いを抑えた顔をしていること。
何かしたのか?と思ったが、礼儀を知らぬ者など幾人もいるだろうと、気にかけないことにしたのだが、
「男たる者、ここがひ弱では役に立たんからな・・・」
と、言うなり、許チョの股間に手を伸ばして、衣の上から探っていた。


何なんだ、この男は・・・?
大勢の前で、恥をかかせるのを何とも思わないのか。自分が軽々しく他人の一物を触るなど、もっての他だろう。品位を問われることなど気にも留めてないのか。
初対面でそんなことをされた記憶など当然あるはずもなく、
・・・無い?
とっさの疑問。頭の後ろで、キラリと光った白い点。
・・・無かったか?
押し寄せてくるような白い光。
・・・いや、ある。

七、八年前か・・・曹仁に連れられていったあばら屋で・・・その時も、曹仁の友達だというみすぼらしい格好をした三十路の男が、やはり許チョの股間に手を入れた。それだけだったのだが、続いて取り調べのごとく、父、忠の話に始まり、家族のこと、食事の量、邸宅の広さ、侠客や私兵の数、殺人の数、女の数、など上手く話題を変えながらも、色々な話を尋ねられた。 男も、役人に逆らった為に逃げ帰ってきて、このほど子が生まれるのだという話をしていた。
食べる物は乾米のくずだったが、酒だけは、澄んだ色で口当たりの良い濁り酒だったのが印象に残っている。
数ヶ月ほどで、その男はいなくなり、曹仁は、病死したと言っていたのだが・・・。


一瞬の回想、許チョの顔は強ばっている。
「・・・ふむ。しっかりしておる。たまにお前のような男でも、このように諸将の前に立つと縮んでおる者がいるのでな・・・」
許チョの食い入る眼に、人なつっこい愛想で応えて、曹操は探っていた手を離すと、密かに、片目をつぶった。
許チョは「やられた!」と叫びそうになった。
確かに、曹操は、以前から自分を知っていた。わかる要素などゴロゴロしていたのに、許チョは全く同一視せず、曹操が新しい人間だと信じ込んでいたのである。
隠居とは、[各隹]陽にて袁紹らと董卓の元から逃れて郷里に戻っていたこと、生まれる子とは[言焦]で妓女だった卞夫人と結婚して生んだ、父譲りで聡明らしい曹丕のことではないか。突然いなくなったのは、董卓討伐軍を呼びかけ出ていったからだ。詰めは、曹仁がそれについて行ったことだ。
二度、三度曹仁が関わって、すっかり騙されているのが腹立たしい。

「・・・まぁ、俺もやられた口だけどな」
遠い眼になった許チョの顔を覗き込むようにして、典韋が言った。
「校尉殿も?」
覗き込まれるのは苦手、許チョは顔を背ける。それへ、
「いくら俺に字が無いからって、やめろよな。背中がむずがゆくなるだろ。・・・それに、人を信じたくない方だろ、お前?」
典韋は、ますます顔を近づけ、鼻が触れそうな距離になる。
「俺は・・・」
言いかけて、許チョは口を強く閉ざした。
こんなにふらっと気軽に言葉を交わす立場でもなく、相手はまだ会ったばかりの人間だ。

・・・俺は何を勘違いしている。

許チョが落ち着きを装った眼に変わったのを見て、典韋も後ろに引いた。
「悪ぃ。馴れ馴れしいよな、俺も・・・」
典韋はにやにやと自嘲気味な笑いをしながら、
「さ・・・俺も休むかな。お前なら、頼りになりそうだし・・・じゃあ後でな」
と、背を見せて手だけをひらひらさせて宿舎の方へ、大きな足を踏み出しかけて、またくるりをこちらを向いた。
「俺みたいにごつい奴ってなかなかいなくてな、お前見て何か安心しちまってよ。・・・いますぐとは言わねえ・・・けど、いい友達になろうぜ、俺達・・・」
続けて言葉を投げかけて、また一方的に笑って、今度は本当に去っていく。
自分と同じ大漢を見送りながら、許チョは首をかしげた。


支給されたばかりの長矛を握り、鉄製の甲冑を着込むこの違和感と、長い時間と、どう戦うか、許チョは慣れるまでの自分を思うと、溜息が出た。
腰にやった手が紅玉刀の柄に触れた。少年と同じ癖が付きそうだ。

・・・璞。

血の証である刀、少年の父を捜す唯一の手がかり。
捜せるのか。正直言えば不安だが、それが彼との約束。
この刀を見、良いと誉めた者は既に何人もいるのだが・・・。



穎川に向けて、軍の出立が決まったのは、その二日後の深夜だった。

 

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