怨恨の地 十六、憤り(下)

 

先ほどまでのやり取りなど、消し去ってしまったような、矛盾する張誠の怒り。
李璞は、自分の意思ではないが、確かに心から浮かぶものを感じた。
憤りというものを持っているのは・・・許チョよりも、張誠のことではないのか、という確信。
もう一つ、この男は「危険」だと・・・。
眼にした黒い花は、生命の終えた色。少年へ問いかける色。


そんな李璞に構いも、気づきもせず、大人達は勝手な世界でやり合っている。
「若いくせに、半端に悩んで、何か結果が出たか? 誰か答えを言ってくれたか?
憤る張誠に、許チョは今までにないものを感じて引け目を感じる一方、冷静に彼の言葉を分析しようともしていた。
「教えてやろうか? ・・・てめえは自分の舞台が欲しいんだよ。お膳立てされた舞台に立つ為に周到に小細工弄して、・・・汚ねえやり方だよな。てめえは動かねえで、いいとこだけ持ってこうなんて。・・・曹操じゃなくていいんだろ? しょうもねえとこで善人ぶって、一国を持とうなんて思わねえくせに、有名な奴の下で、活躍でもして、名を売って・・・、どっかの馴染みの将軍様みてえに、やるだけやった過去を消して、半端な知識だけ持った正義の男みたいに表に立つつもりだろ。お殿様になって家来の面倒を見る気もないし、下っ端になってこき使われたくもねえ・・・、一番楽な線で行きたいんだろ?」
「何が楽だ」
「怒ったか?・・・怒れよ。怒ったらいいだろう?・・・怒りを忘れた獣ほどタチの悪いもんはねえさ。てめえは怒ってる方が性に合う」

挑発を越えて、張誠は自分の怒りをぶちまけるだけだった。
「血が欲しいんだろ? 虎痴とは上手く言ったもんだ。・・・てめえはその名の通り、虎だよ。獣だよ。自分でわかってんだろ? 自分の腹の中、煮えくりかえってるだろ? 理性で自分で抑えられねえのわかってるから、理屈をこねて、周りを振りまわして、変なもんに首突っ込んで。・・・徐州の出来事なんて、てめえには一切関係の無かった話だからなッ」

隠してきた黒。月日と共に溜まる闇の淵。
許チョは吐き気を起こした。歯を食いしばる。胃がびくんびくん動き、何度も気はあがってくる。とっさに、逃げ道を作ろうとして見たのは、少年李璞の純粋な瞳。言葉に出来ぬもどかしさ。
正面には、張誠の血走った眼が・・・なぜか、その両方の瞳が重なって見えた。
綺麗な瞳の色が、真っ黒なものとなぜ重なるのか。
さらに逃げようとして心内に浮かんだ少年の笑顔が八つ裂きになり、張誠の嘲笑った顔になる。
許チョの首筋から両頬に抜けて、こめかみ、頭頂まで、一気に血管が膨張する。
頭が破裂しそうな勢いで、全身に熱がめぐる。


「殺したいか? どこまで平静を保っていられるかな・・・」
許チョは何度も深呼吸しながら、衝動を抑え込む。
その怒りを見て、張誠は、悦びを覚えた。
女を抱くよりも激しく、ゾクゾクと背が、痙攣する手足が、その全身で悦びに浸る。
その惚とした悦。
許チョに殺されれば全てが終わる。永遠の勝者になれる。張誠の頭の中では、曲がった勝者への道程が描かれていく。


「仲康様ッ!」
李璞が絶叫した。
鞘から刀を抜いていた。
「!」
反射的に引いた足、刃がわずかに血を乗せてひらめいた。
「璞ッ!」
許チョの左太股、皮膚を裂いたのは、紅玉刀。真横に、研ぎ澄まされた刃は、恐ろしく斬れる。
足を引かなければ、股の肉を綺麗に斬っただろう。
そして、少年の技量。許チョには教えた覚えがない。請われても拒否した。

「・・・いい線が出来たな」
その師は、満足に頷いていた。
「張・・・お前が教えていたのか!」
「教えてくれって頼まれたからさ・・・お前がいない時にな」
「誰も言わなかった・・・」
「こいつが、絶対に言うなって懇願しまくっていたからな」
「璞・・・・・・」
許チョは、哀しげに顔を歪ましたが、李璞は毅然として、剣を持ち直す。

「さて・・・可愛がってる子供に裏切られた感想はどうだ・・・?」
許チョは李璞の顔を見つめたまま、答えなかった。
「じゃあ、璞。もっと斬ってやれよ・・・いい加減、目が覚めるかもしれねえしな」
楽しむ張誠へ、李璞は向き直り、じっと見ていたがすぐに刀を収める。
「勘違いしないで下さい。・・・私は、仲康様が動くのを待っているんです」
「へえ〜・・・焚き付けてやったってのか? しかし、師に対する言葉じゃねえな」
「あなたが始めに声をかけてきたんですよ。「暇だったら剣でも教えてやろうか?」って・・・私はそれに応じただけです」
計画はすぐに狂うもの。許チョは怒るどころが、冷え切った顔をしている。
「はッ、やっぱり守銭奴の息子だ。てめえも利用したってのか」
「璞・・・やめろ」
眼の前のやり取りは、何かの芝居じゃないのか、と、許チョは無理に思い込ませようとしていた。
少年の態度は絶対に違うものだと思いたかった。
自分がそう思っていただけで、少年に限らず全ては違う世界なのだろうか。

「私には仲康様だけなんです・・・「英雄」なんです。どれだけ汚くても、私はあなたを信じています。だから・・・負けてほしくないんです!」
李璞は泣きながら、何度もそれを繰り返す。
それでも、許チョの心が異様に冷めていく・・・。
剣を教えなかったせいなのか? 突き放そうとしたかったからこうなったのか?
実親に捨てられた記憶か、義父の呆けた態度が少年を変えたのか?
自分の見たくない姿が、同じものを作り出しただけなのか?
・・・腹が立った。自分への憤りを強く感じた。その対処の術はわからぬままに。


「もう・・・俺の居場所はねえんだな・・・」
張誠が突然、静かな顔になって離れていく。
「どこへ行くんだ・・・」
「曹操を殺しに行くんだよ・・・お前の代わりに」
風のように、違和感無く呟いた言葉だが、この城下でそれをこぼすには危険である。
「・・・待て、張誠」
「お前に呼び捨てにされたくないな。それに・・・、年上は優遇するもんだ」
許チョの喉は締まった。
・・・殺しを宣言した男が、なぜ、そんなに物悲しく笑うのか。
「この際だ、教えてやる。・・・親からもらった名は“徐他”だ。しっかり覚えていてくれよ」
「・・・なぜ、殺しに行くと言って、本名を打ち明ける?」
「勝負だからだ」
「勝負・・・?」
「そう、・・・勝負だ、虎痴・・・じゃねえな、許仲康。また会おうぜ」
許チョの視界の中で、木の葉のようにふらりと消えていく張誠。
視界の外では、雷真が走り寄っていた。


「徐他・・・」
許チョは突っ立っている。何度もその名を繰り返し呟く。
偽装した心をはがし、容赦なく切りこんできた男。
奥底に棲ませていた獣に餌を放り、本性を見抜いた男。
勝負、とは一体何なのか?・・・曹操の生死こそが勝負なのか?
・・・それが、徐州の恨みが生み出した人間なのか?
敗北を強く意識した許チョには、変わる空の色も、寂れた市に吹き抜く風も、何一つ外の刺激が入っていない。
雷真が彼の眉間の出血が止まりかけているのを確かめると、宿舎に戻ろうと彼の腕を引いた。虚ろな許チョは素直に歩み始めた。
来なさい、と促され、李璞もぼんやりした調子でついて来る。


許チョの頭には張誠・・・徐他の事で占められていた。
徐他、と名を告げ、独り去っていくのは、故郷の恨みなのか。
曹操を殺すと誓ったのは、そのせいなのか。
何の為に、誰の指図で、ここにいたのかはわからない。だが、自分をいつも見ていた事だけは気づいていた。
なぜ、今、去っていく必要があるのか?
故郷を踏みにじられた時に、(馬路)定元を行かせた時にも、表立っては何一つ、表情にも言葉を出さなかった男が、今になってなぜ・・・。
それほど自分を律する精神を持ち合わせているのだろうか。・・・だとすれば、自分よりもはるかに強靱な精神を持っている事になる。
爆発するまで耐えに耐え、憤りを溜めるだけ溜めて・・・。
そこから生ずるのは、無謀な行動。

・・・本気でやるつもりか。

体が震えそうになるのを耐えた。雷真の腕を払い、両足でじたんだを踏み、頭を強く降る。止まりかけていた血が飛ぶ。
完全に見抜かれていた。実兄よりも、兄とも慕った将軍よりも、あの張誠・・・徐他は心を見透かしていた。
それとも・・・、皆、気付いていて、黙っていただけなのか・・・?


抗う彼を見ていた少年にも、冷ややかなものが生まれた。
侮蔑でも同情でも嫉妬でも無い、闇に隠れていた小さな隙間がまた広がり始める。
紅玉刀を握っている。たった今、慕った男の皮膚を裂いた刀。
「でも・・・私にはあなたを信じる事しか出来ないんです。仲康様・・・」
届きもしない小さな声。李璞はまた歩き出した大人達の後ろに付いた。
一歩踏み出すたびに、心が軋んだ。涙があふれて止まらなくなった。

 

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