怨恨の地 十二、重黒

 
頭に、胸に、渦巻いた声。幼い頃に聞いたことがある幾つもの声が群がり、闇に響き渡る。
響くたびに、ドクンと心臓が鳴る。ゾクゾクと鳥肌が立つ。
・・・嫌だ。嫌だ。嫌だ!
その声は塞いだ耳を貫き、鼓膜に突き刺さり、脳まで一気に昇る。
・・・俺は嫌だ!
震える。涙が出る。無性の怒りが湧いてくる。
・・・捨てたのは貴様らだ!今頃出てくるな!
手足が意志に反して、痙攣を起こす。
・・・貴様らが、親父達を殺したんだろが!その報いが来たんだろが!
唇に、血の色は無い。
・・・俺は貴様らと一緒じゃない!俺は張誠だ!そんな名じゃない!
首を振っても、振っても、消えない映像。差し伸べられた、血の手。
・・・俺は、あいつに勝ちたいだけだ!
呼ぶ声はかき消える。
・・・勝ちたい!勝ちたい!勝つ!
・・・か、・・・勝てるのか?
我に返った。埃をかぶった薄汚い部屋の中。
額から顎に、伝わる汗。
空気が重い。次々に吐き出された汚い空気の溜まり。

ケン城外。曹仁の軍勢と分かれ、比較的広い民家数軒に宿をとったその夜、ひしめくように転がって眠る人間の間、独り張誠は悶々とし、ついには胸の痛みを覚えて外へ出た。
息を吸うと、きゅうと胸の締まるような冷たい空気だったが、鮮度がある。痛みは消えた。
「誠・・・。眠れない、か?」
薄暗い中、先約に李岱がいたらしい。
「お陰様で・・・有意義な夜だよ。・・・旦那の方こそ、紫麗は?」
「・・・理想の男を見つけたそうだ」
「はぁ?」
「冗談だ。・・・もう契約が切れたからね」
李岱がめずらしく彼の前で笑う。薄暗いからはっきりはわからないが、何となくすっきりしたような顔だ。
「契約? ちょっと待て、それじゃ、あの女は・・・ッ?」
「いやいや、お前の言う、ただの売女だよ。私が終わりにしたのだよ・・・」
「んなもん、いきなり金だけ渡されて、こんな中途半端な国ん中じゃ困るだろ?」
「どうにでもなる。・・・いくら美しくても、売女は売女。私の腹を探るような真似はされたくないのでね」
「じゃあ、やっぱりどこかの間者だったんだろ?」
「いや、ただの女だったよ。・・・惜しい。間者であればもっと愛してやったものを・・・」
「・・・趣味が悪いな。間者だったら、殺されてるぜ?」
「ただの女など、捨てるほど集まる・・・」
“ただの女”なら、彼にとってのはした金で転ぶ。そういう法則に、李岱は退屈している。金が集まれば集まるほど、狂気が出てくる。心から震えるような、その貪欲を満たすだけのものが欲しいとさらに金は動いていく。


・・・潮時か。
「立明の旦那」
「何だね?」
「俺も暇をもらえねえかな・・・」
「また、それは突然。・・・理由は?」
「個人的理由というやつさ」
「紫麗を追いかけるのかね?」
「まさか・・・」
嫉妬を含んだ眼に、真実、理由は違ったにせよ、彼女に近づくには命を捨てる覚悟がいるだろう。異様な嫉妬を被るのだけは避けたかった。
「お前には・・・なるべくなら、[言焦]に帰るまでいてもらいたいのだが・・・」
李岱の眼に、一点の輝き。抜け目のない商人に特に宿る損得勘定。次々と眼の色だけはよく変わる。
「あいつがいるだろ?」
「さぁ・・・。仲康は、子孝将軍に再会して、かなり揺らいでいる。あの歳だからまだまだ気まぐれ、どうなるかわからないが、このまま曹操の元に付く可能性が高いのだよ 」
「へッ。・・・旦那もあいつのことしか考えてねえんだな。俺には何の役目も務まらねえってことか・・・」
「・・・。今夜はよく突っかかるようだが・・・、何か問題でもあるのかね?」
「ああ。問題大あり・・・」


・・・若いあいつには、へえこらと丁寧にやってるのに、俺のような流れ者には何でそんなに蔑んだ眼で見るんだ?
確かに雇ってくれと頼んださ。俺も食い物が欲しかったからな。
その代わり、あんたの望みも叶えてやったのによ。汚ねえこともやったぜ? 商人は自分の手を汚さねえで、平然と金を握りやがる。
あのちっぽけなガキでも、あんたの正体見破ってんだぜ? 俺が何にも知らねえと思ってたのかい?
あんたの正義は金だったな。金で生き抜いてるんだからそれなりの道理は立つかもしれねえが・・・。
それ以上に許せねえのが、正義面して、正反対のことやるあいつだ!


「・・・一つ、持っていくといい」
じぃっと張誠の眼を探っていた李岱が、言った。一つ、は数千もの金を積んだ箱の一つ。・・・すぐに私兵を雇えるだけの金。
「何ふざけた事言ってんだ、あんた。曹操の軍資金になるんだろ、あれは・・・」
「・・・私の金だ。どれだけ渡すかは、私が決めることだ」
「旦那・・・」
「商人はあらゆる手を打っておくものなのだよ・・・」
ふふっと笑った李岱に、温厚な男の顔は無い。
「・・・あんたは根っからの悪者なんだな」
上には上がいる。李岱の場合はわかっていた。衣だけだ、綺麗な色をしているのは。
ほんのわずかな期待がことごとく、現実に食われていく。
「あれだけ見てきて、まだ足りなかったのかね?・・・言ったはずだ。私は商人だと・・・さ、私の気が変わらぬうちに、泥棒でもしていきない」
「・・・そのまま持ち逃げしたら?」
「勝手にするがいい。私の眼がそれだけだったということ。・・・遠慮することはない」
「旦那。あんたの言葉だけはいつも綺麗だよな。その手は綺麗だよ、確かに・・・。あんたの後ろにはどれだけの組織があるか知らねえが、金だけで全てが動くと思わねえこった」
「これはおもしろい。仲康と同じことを言うとは・・・。とうとう感化されたのかね?」

李岱は許チョが好きらしい。商人の割には人間付き合いが疲れると言ってた男が、飽きもせずにぶっきらぼうな男と付き合っているのだから。
「あいつと一緒にするなよ」
許チョのことを考えると、世界が反転する。
「お前もそうらしい。・・・仲康の名を出すと、みんなそれなりに顔色を変えて喋る。私もその一人だが・・・」
「あんたの方こそ、染まっちまったんじゃねえのかい?」
李岱の関心は、許チョにしか無い。良くも悪くも。
「染まる?・・・塗り重ねて黒くなった色が、何の色に染まるというのだね?」
「・・・削っちまう手もあるぜ?」
「それは良策か、ただの無謀というものだ・・」
李岱は、付き合いを長くし過ぎた。たとえ、許チョの敵となったとしても、ためらいが出るだろう。・・・張誠は確信している。
ためらったその隙を、許チョは必ず見つけてくる。
それに、弟が窮地となると、兄の定が出てくるだろう。許定という男も、ひょっとしたら李岱の上を行くかもしれない。その一瞬の判断力には、誰もかなわない。
彼らは無意識だが、それぞれのやり方で他人の弱点を衝くことに長けている。・・・やっかいな兄弟だ。

「・・・じゃあな、俺は行くぜ。あんたと喋ってたって、何の解決にもならねえ・・・」
「持っていかないのかね?」
「いらねえよ。・・・金で小細工して勝ちたくねえからな」
「・・・綺麗事を。仲康と同じ盤面に立って、勝てると思うのかね?」
張誠が常に許チョと張り合おうとしている事に、李岱は気づいていたが、黙ってきた。年長でも、力を付けても、負ける時は負ける。最初から一歩引いてしまえば、その一歩を引きずり続ける。盤面の前に立つまでに、その一歩の分前に進まねばならない。
「乗らなきゃいいんだろ。俺は金以外なら何だってやるさ・・・」
「金を甘く見るものではないよ・・・。それに、仲康はお前が思っているほど強い男ではないのだ・・・」
「強いかどうか、証明してやるよ・・・」
「・・・、・・・行ってしまったか」
李岱が返事を考えたその間を、遅いと思ったのか、張誠は双刀の鞘を激しく揺らしながら駆け去っていく。


「愛すべきか、殺すべきか・・・。どうすればいい、紫麗?」
風上にいた張誠。袖に隠した短刀。
李岱のその足元に茂る草むらを伝った奥に、彼が毎夜愛おしんだ女の骸が転がっている。
「お前も不憫な女だ。あのまま売女として生きていればいいものを・・・。私は愛してはやるが、愛されるのは嫌いなのだよ・・・」



「誰か!誰か!」
ふいに上げられた叫び声。狭い空間に浮かんだ灯火と共に、ばらばらと人が飛び出してくる。
「張誠を! あれをすぐに追いかけなさい!・・・あの娘(こ)が・・・、紫麗が殺された・・・ッ!」

 

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