怨恨の地 二、来香(ライコウ) |
少女の名は来香と言う。 その来香を連れた馬路は食糧調達に苦心しつつ、曹軍に蹂躙されていない 下[丕β(ヒ)]にたどり着いた。 下[丕β(ヒ)]は水運栄える大きな街である。 北は沂水をさかのぼって[炎β(タン)]から青州へとつながり、西は泗水を流れて彭城に、それからさらに進んで陸路となり洛陽に至り、そして南は長江へと注ぎ、呉へと続く。 この街は昔、秦の始皇帝暗殺に失敗した漢の高祖を支えた名宰相・張良が潜伏していたところでもある。 昨年、曹操は彭城から[炎β(タン)]に向かい、遠征軍の通過拠点となったが、 曹操はこの街をさしたる抵抗なしに陥とすと、略奪破壊を戒め駐屯したのみで 被害をこうむることはなく、水陸共に物資の往来が遮断されずに済んだ。 交通が遮断されれば、主に兵糧などの軍事物資の運搬までも妨げられる。 物資の流通路上にある街は、中国各地を行き交う商人達が集い、貴重な情報網の要。 曹操はそういった拠点を確保することに関しても巧みで、ただがむしゃらに侵攻してきたわけではないのである。 一時補給の為に曹軍の本隊は撤退したものの、徐州の要として兵の一部は駐屯していた。 再度の侵攻に際しても、曹操の厳命なのか、この街は略奪されているような気配はなく、城下は戦時であるというのに活気が満ちている。 馬路は急に景色が変わったのでやや面くらいながら、少女は鞍の上に、自身は 手綱を引いて街に入った。 昼飯時を過ぎて、日が傾こうとしている。 馬路は飲食店から漂う臭いにあちらこちらと誘われながら歩いていたが、まずは少女の火傷を癒すのが先だと思い街の奥へ向かった。 対面する者みな自分の方を顔を伏せながら、ちらちらと盗み見て行く。 露店の男なども声をかけようとはしない。 何か顔についているのかと思って頬を拭ってみると、べっとりとしたものがついた。 「血・・・」 来香がぽつりと言った。 右手は真っ赤で、拭った右頬まで逆に血糊がついてしまった。 今朝、盗賊にからまれた際、手の甲についたのだろう。 「お前、知ってたなら・・・」 慌てて服で拭こうとすると、 「おい、そこの男ッ」 門衛二人、目ざとく馬路を見つけてやって来た。 「あっちゃぁ・・・」 運が悪いな、と思いつつ逃げずにその場で彼らが来るのを待っていた。 「貴様、どこから来たッ」 太った方が言った。 「あっちです」 馬路は赤い右手で、来た方向である北を指さした。 「ふざけるなッ」 もう一人のひょろっとした方が槍の先を向けて怒鳴った。 「ふざけるなと言われても、事実です」 「どこの国から来たと言っているッ」 「ああ、そういう意味か。徐州の北です」 「貴様、俺達をなめているのかッ!!」 「俺が? あんたたちをからかっても何の得にもならんのに?」 馬路は涼しい顔で言った。向けられた槍を前にしても動じる気配がない。 門衛らはかんかんになって、青筋たてる。 来香は馬上でじっと成り行きを静観している。 興味深げに、遠巻きに見物人がたかりはじめ、それに気づいた馬路はまた言った。 「あ、すみません。言い忘れていましたが、私は屠殺を生業にする者です。この馬は食肉用に買い取ったんですが、殺すに忍びなく心ある人に譲ろうとここまで連れて来たんです」 飢饉と戦乱によって、この街を一歩出ると、疎外地の農村では飢餓の状態。人肉まで食い合う始末で、この街の豊かさは商人の恩恵である。 「ほざけッ」 「そのようなこと信じられるかッ」 馬路はそんな気ではなかったのだが、愛想良くしようとして微笑んでいたことと年齢のわりに態度が大きいことが、門衛らのカンに障ってしまっようである。 「・・・弱ったなぁ」 馬路が引く馬がブルルル・・・と鼻を鳴らした。 「大丈夫だよ、お前食ったりしないから」 つい、話を置いて馬を撫でてやると門衛らは切れてしまった。 「増長するのもいい加減にしろッ」 太った門衛が叫んで真っ直ぐ槍を突き出すと、馬路は左腕でそれをはじき、右拳を顔面に繰り出した。 ゴキッという音と同時に、悲鳴が上がった。 門衛の鼻が砕かれ、血が流れた。 「しまった。・・・あ、大丈夫ですか?」 後悔するも遅く、馬路は門衛を助け起こそうとした。 当然、門衛はその手を払う。涙声で何事か怒鳴っている。 もう一人のひょろっとした門衛は言葉が出ずに立ちつくしている。 「はぁ・・・」 馬路が困惑しきっていると、見物人の騒ぐ声に混じって、誰かが自分の名を呼んだ気がした。 「ん?」 振り返ると、人を押しのけながら少年が近づいて来た。 十歳そこそこの小柄な少年である。 「定元さんッ、何しているんですかッ!!」 少年は叫ぶ。少年期特有の透った声である。 「璞(ハク)か」 馬路はほっとした顔で答えた。定元は彼の字である。 少年・李璞(リハク)はひょろっとした門衛に、 「お許し下さい。後で言って聞かせますので・・・これは少ないですが治療代です。お受け取り下さい」 と早口に言って、骨張った門衛の手に、いっぱいに膨らんだ革袋をしっかりと両手で握らせた。とても少年とは思えないほど手際がいい。 「言って聞かせる?」 「黙っていて下さい」 「・・・はいはい」 少年が愛らしく目で戒めるので、馬路は素直にそれに従った。 「に・・・二度とウロウロするんじゃないぞ」 「はい。申しわけございません。・・・お気をつけて」 少年は深々と頭を下げて見送った。 「行くぞ・・・おい、しっかりしろよ」 ひょろっとした門衛は悲壮な顔で、太った同僚をよろよろと抱えながら去って行った。 そして、見物人も散っていく。 「悪い悪い・・・つい、巻き込まれちまって」 馬路は自業自得だと言いたかったが、少年の好意に甘えておくことにした。 「怪我は? 大丈夫ですか?」 「ああ」 「ところで、珍しく“女性”をお連れのようですが?」 李璞は馬上の来香を見て、言った。十二、三歳といえば女は嫁として十分な年齢。 「あ、こいつ? たまたまこいつが、迷子になっていて連れて行って下さいッて お願いするから仕方なく・・・」 馬路にとってはその年頃は女として見えていないらしい。あくまで子供である。 「それ・・・かどわかしたと言いませんか?」 「そうとも言うな・・・孤児に当てはまるかどうかは知らんが」 そう言われてはじめて、李璞は馬路の右腕が血に染まっているのに気が付く。 「定元さんッ、その傷ッ!!」 「返り血だよ」 胸でこすると無傷な手が覗く。もっともこびりついた血まで拭えなかったが。 李璞もそれが門衛の鼻を砕いた際についたものではないと知りつつ、あえて 問わなかった。 「・・・それより、お嬢さんのご怪我はどうなのですか?」 彼らの背後、さっきまで見物人の輪があった場所に、四十路の商人が立っていた。 中肉中背でこれといった特徴はないが、彼が少年の父親・李岱である。左右には両腰に刀を下げた男と、妖艶な笑みを見せる女がついている。 「あ、忘れてた」 馬路は来香を見て叫んだ。 「えッ? 怪我しているんですか? 早く言って下さいッ。・・・ごめんなさい、気づかなくて」 李璞が近づくと、来香はぎゅっと馬のたてがみを握った。顔を伏せて上目づかいに視線を向けた。 「この子は村をやられて、母親を目前で殺されたんだ・・・簡単な手当はしといたが」 「そうですか。では定元殿、帰りながら羅義に治療させるとしましょう。貴方は お嬢さんの側についてあげて下さい」 「・・・頼みます」 李岱に頭を下げると、馬路は再び来香の乗った馬の手綱を握った。 この紳士な李岱が曹操と陶謙双方に物資を提供する死の商人である。 今年は勝運のある曹軍に協力して懐を潤しているようだが、馬路の生活に 直接関わるわけではない。 商人も相手を間違えれば己も滅ぶ憂き目に遭う。命がけで商いをすることに馬路は興味を持つのであって人間性をとやかく言うつもりはない。 来香がこんな現実の中でどう成長するのか、それが気がかりであったが・・・。 彼の思いをよそに、来香ははるか南からやって来る湿った風に心地よさを感じていた。 その親指には古い指輪が、右腕には裂かれた布が巻いてある。 そして、李岱の商隊はその日のうちに下[丕β(ヒ)]から西へ向けて出発した。 一方、徐州征圧を目前にした曹操ではあったが、盟友・張[貌バク]、配下の陳宮らの裏切りによって天下の狼・呂布に背後を突かれ、彼の軍は撤退した。 だが、二年にわたる虐殺によって、徐州の地は遺骸を埋葬する者もなく、無人の城、無数の廃村だけが残された。 一つの死には、十万の死を。 十万の死には、一つの死を。 かの地の恨みは尽きることなく、その後の曹操の行く手を阻むこととなる。 |
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