怨恨の地 一、徐州

 
「殺せ、殺せ、殺せえーッ! 皆殺しだ、一滴の血も残すなぁぁーーーッ!!」
徐州に電撃が走る。
曹操の怒号がかの地に惨劇をもたらす。
一人の人間の復讐が地獄を生み出した瞬間であった。


曹操は初平四年(193)秋から徐州に遠征し、興平元年(194)四月に兵糧不足の為にいったん[亠兌]州に帰還した。
だが、休む間もなくその年の夏には、再び徐州の地に舞い戻ることになる。
父・曹嵩と彼の末弟・曹徳及び一族が徐州刺史・陶謙の部下に殺されたのである。

[亠兌]州を足がかりに、徐州進撃をこれからの展望の一つとしていた曹操は、戦火から逃れて徐州瑯邪に隠遁していた父を思い、泰山太守・応劭を迎えに行かせたのである。
陶謙としては、元黄巾賊の精鋭“青州兵”30万を有して、一気に一大勢力となった曹操は脅威の対象であり、その隣国の一族が領内を通行することがおもしろいはずもない。
陶謙は部下に命じ、曹嵩を客人として迎えに行かせた。もちろん、人質として拉致するのが狙いである。

しかし、彼の兵は賊上がりの悪質な者が多く、曹嵩一行の財荷に目がくらむ。
曹嵩と言えば一億銭で官位を買った豪族。その莫大な富を前に元賊軍の兵に悪意が起きないはずがない。
陶謙の兵は曹嵩とその家族を斬殺し、その荷を奪って消え去った。泰山太守・応劭もまた曹操の粛正を恐れて消えた。
急報が[亠兌]に飛び、曹操は報復として、再び徐州遠征を断行した。

曹操の悲しみと怒りには、徐州領民の血をもって償いとされた。
略奪・強姦・殺戮・破壊。
青州兵は本来の素性を取りもどしたかのように暴れ回り、曹操の兵はまたも徐州の地を蹂躙した。
後に、呉の名将・呂蒙は、「平地が多い地で攻めるに易く、守る際には数万の兵が必要」とこの地を評しているが、それを裏付けるかのように、曹操の進撃はとどまることを知らず、通り道となった場所は皆殺しの目に遭い、瑯邪・東海の諸県はことごとく彼の手に落ちた。
彼の狂気とも言える復讐心は、軍兵卒まで反映し、陶謙の首を目指して暗黙の進軍がなされたのである。


その頃、同じ徐州の地で曹軍の蹂躙を逃れている者がいた。
馬路という、年は二十五、六の青年である。
袖の破れた服を着て一見むさ苦しいが、きりっとした眉に頬は引き締まって、服から覗くその体は無駄な贅肉がない。
瑯邪・東海諸県へ進んだ曹軍の手を逃れるように、彼は南へとひたすら馬を走らせていた。

行く先々の村は、曹操の非道を象徴するかのように大量の死体の山が築かれている。
連年の飢饉で住民は衰弱しきっており、曹軍の襲撃に抵抗する力さえ残されていなかった。
馬路も食糧を携帯してはいたが、それも続かず、死骸の転がる家々の床下や屋根をはがし、わずかに残された食い物を求めては馬を進める有様だった。

馬を駆けて、馬路が次にたどり着いたところは、[炎β(タン)]を過ぎた山すその小さな村落だった。
[炎β(タン)]の東方では、まだ戦闘が起こっている。だが、それも時間の問題であることは目に見えていた。
村はまだ、あちこちから煙がのぼり、ほとんどの家屋は倒壊していた。
おそらく先行する曹軍の兵糧徴収部隊だろう。
馬をつないで、彼は破壊された柵を乗り越えて村の中に入った。

予想はしていたものの、何度も見たその凄惨な景色に息をのむ。
足下には倒れた材木や散乱した食器、崩れた家の土壁、それに村人の死体で歩けぬほどだった。
井戸を覗くと、身を投げた女達の亡骸で底が見えない。
ようやく見つけた生者も、血を吐いて息絶えた。

「・・・また徒労に終わるかな」
異臭に眉をひそめながら、馬路はつぶやいてみる。
周囲には人肉の焼ける臭いと血の臭いが辺りに立ちこめていた。
彼の嗅覚は麻痺しかけている。
村の奥で馬路は足を止めた。

立ち止まったその視線の先、傾いた家屋の影に数人の女の死体がかたまっていた。
女たちの胸ははだけ、腰回りに破れた着物をまとっただけで、それぞれ胸を刺され、喉を切り裂かれ、うつろな目に空を映して、瓦礫の中に哀れな姿をさらしていた。
その女達の死体の中に少女の姿があった。
背丈からして十二、三歳頃の少女は、女の死体の一つにしがみついて、その冷たい胸に顔をうずめている。
その右腕は火傷を負っていたが、母の死に痛みを忘れているのだろう。
声もなく、小さな肩は震えていた。

「おふくろ・・・なのか」
馬路はそのまま眺めていた。
その間も少女は母親の死体にしがみついたままだった。
しばらく馬路は少女に目をとどめていたが、このまま見捨てるわけにもいかないので、少女の元へ歩み寄り、片膝を地面につけた。
少女は前にもまして母の死体にすがりつく。

「安心しろ。俺はこの村を襲った仲間じゃない」
それでも少女は振り向かない。
「・・・お母さんを殺されて悔しいか?」
馬路の問いに、ビクッと体を震わして少女は彼を見た。

「殺してやりたいか?」
かまわず、馬路は問いかけ、容赦のない厳しい眼差しを向けた。
「・・・・・・・・・」
それを避け、少女は死体の手から指輪を抜いた。
粗末な銅でできた指輪だったが、大切にしていたらしい。
唯一残された母の形見。
馬路は無言で少女を見つめている。

「・・・許さない」
ようやく、少女は口を開いた。
「絶対に・・・お母さん殺した人、許さない・・・ッ」
嗚咽を噛み殺し、少女はまっすぐに馬路を見上げた。
昨日まで恨みとは無縁に育った子供に生み付けられた新しい感情は、悲しくも激しい。

「・・・あんたのお母さんを殺した男は、曹操だ」
「曹操・・・」
その目が冷たい光を放つ。
「しかし、これだけは忘れちゃいけない
馬路は少女の前髪を掻き上げ、その目を見据えて言った。
「・・・曹操もこの国に“お父さん”を殺されたんだ」

 

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