願い |
・・・この手に掴んだものは、遥かなる女の願い。 熱。焼けるように熱い。 孫権は日頃の心労がたたったのか、熱を発して倒れ込んでいた。 典医が診たところ、やはり疲れと出、数日で治るはずだったのだが、 ・・・もう六日は過ぎている。 いつもは身勝手で気丈な妹までもが深刻な顔をしている始末。 彼女へは政略結婚で劉備との婚儀を伝えたものの、あっさりと承諾され、内心に兄というよりも父親風が吹き荒れたのが一つの原因だろうか。 「・・・・・・くっそぉ・・・。俺がなぜこんな目に合うんだ」 妹に劣らず、身勝手な言葉。 朦朧とした頭に自制心など存在せず、だからといって、臥所にへばりついているままで立ち上がることもままならない。 精神面では弱い(ふりもする)ところもある彼だったが、今度ばかりは本当に病に負かされているらしい。 無性に喉が渇いてたまらない。 助けを借りて上半身を起こし、侍児が差し出す器の水をやっとの思いで飲み込んで、また臥所へ倒れ込む。 食べ物も薄い水粥を流し込めればよく、この二日はそれも入らない。 ただひたすら熱さに耐え、水を飲むの繰り返しだった。 張昭や周瑜、魯粛などは、たまにだが孫権が起きているのを確かめてからやってくる。 細かな気遣いではあったが、気遣ってくれるなら、そっとしておいてほしいと思う。 このまま死ぬのなら、何も考えずに死にたい。 いや、死にたくはないが、病が癒えるのなら、いっそのことこの城を抜け出して、一百姓として生きてみたいような気もする。 「・・・駄目だ。俺の顔は目立つ・・・」 赤い毛と青い目。両極端な色を持ち合わせて生まれてきたことに、また孫権は悔やむ。 交互に見守っている侍児は、孫権の言葉の意味を首をひねって考えているが、孫権にそれを見る余裕はない。 「あいつ・・・どうしているかな」 白猫の丁霧季。黒い目の可愛い奴。 どうして来ないんだ、お前は。薄情だぞ。 ・・・・・・・・・にゃあ〜・・・・・・・・・・・ 「・・・霧?」 苦しんでいた孫権の顔が和らいだ。 「猫?何処から・・・」 きょろきょろ辺りを見回す侍児に、 「・・・出てろ」 と、孫権は言いながら体を起こそうとする。 「いけません。そのような体で・・・」 「うるさいッ。出ろと言ったら出ろッ・・・斬るぞ!」 孫権は差し出した手を振り払い、自力で起きあがって、枕元に置いている剣を取った。 「は、はい」 どこにそんな体力が、と侍児は思いながら、室を後にしようとする。役目があるので、扉の外で耳をすませるはずなので、それも言い含めておいた。 「霧。遅いぞぉ・・・」 言葉尻が下がる。目尻まで下がる。 孫権は白猫・丁霧季の姿を認めると、どっと臥所に倒れ込んだ。 たとえ無害な侍児であろうとも、この時間だけは邪魔をされたくなかった。 丁霧季こと霧は、飛び上がって孫権へ頬ずりする。ごめんね、とばかりに。 安心したのか、孫権の意識薄らぎ、目の焦点がゆるくなる。 「・・・霧・・・俺は駄目かもしれん・・・・・・」 かすれたその呟き。 霧は首を振って、口を大きく開けると、孫権の親指にがぶっと噛みついた。 「い、痛ぁ・・・・・・お前ッ」 離そうとして手を振ると、霧も意地なのか、噛みついたままぶら下がっている。 霧は子猫ではない。指がちぎれそうになって孫権も必死である。 「わかった・・・俺が悪かった。・・・離せ、霧・・・・・・頼むからッ」 それを聞いて、霧は孫権の指を解放した。 しっかりと噛まれた割には歯形と血が少しにじんだだけで、孫権の指は無事だった。 「・・・お前は優しいヤツだ・・・・・・」 痛みもはっきりとわかる(まだ痛いが)、指を振る元気もある(させられたが) まだまだ、死ぬには早いか・・・と孫権は思い直し、怒っている霧の背を撫でてやった。 しかし、疲れたのでいつの間にか眠ってしまう。 髪を撫でられた感じがして、孫権は目を覚ました。 まだだるいが、うたた寝したような気持ちよさ。 「霧・・・」 まだいるかなと声をかける。 「・・・お前は・・・・・・?」 はっと気づいて側から離れた若い女。 その腕を無意識に掴んでいた孫権の手。 交差した視線。青の目と黒の目が合って。 「まさか、霧・・・か?」 顔をそむけてうつむいた女。 「・・・霧。なぁ、霧なんだろう?」 熱にうなされて、意識は薄らぎながら、その手だけはしっかりと掴んだ腕を離さない。 「答えてくれ・・・お前は霧じゃないのか?」 ・・・雫が落ちる。 「・・・その目、霧にそっくりだ・・・」 黒い目に涙をあふれさせて、女は孫権の顔を覗き込みながら、ぽろぽろとそれをこぼし、 そのひとつひとつが、孫権の赤い髭に吸い込まれていく。 孫権が濡れた頬へ手をやると、女はその手に自分の両手を添えた。 ・・・柔らかな手の感触とぬくもりが伝わってくる。 孫権がまた眠りにつくまで、彼女はその手をずっと握っていた。 翌朝、孫権は飛び起きた。 不思議と熱は下がって、孫権は猛烈な食欲で体力を取り戻していった。 典医も首をかしげるばかり。 結局、「知恵熱」騒動で片づけられてしまった。 それから数日経った夜。 孫権は一人、月を眺めていた。 右手をぐっと握りしめると、未だに残るぬくもりの記憶。 たった一度、その手を握ってくれた女の手。 熱のせいではない、と思いたい。 確かに・・・女がいた。 霧とそっくりな目をうるませて、この顔を覗き込んでいた女。 彼女の頬にもう一度触れてみたい。 「なぁ・・・霧」 にゃん?と彼の膝の上にいる白猫が見上げる。 あの日以来、白猫・丁霧季は常に彼の側にいるようになった。 しかし、臣下の者に会う度に、その黒い目を輝かせて感動している(らしい)様は奇妙ではあったが。 「・・・今度、いつになったらまた女になるんだ?」 孫権の痛い視線を逃れて、にゃんにゃ〜♪と歌うような声を出す霧。 「話をそらそうとしても無駄だぞ」 ぴたっと止まって・・・霧が膝から飛び降りようとすると、すかさずその尻尾を掴んだ孫権。 バタバタもがいても、ぶら下がった状態は変わらない。 「観念したか? ・・・女になったら降ろしてやる」 ぶらんと霧の全身の力が抜ける。 「死んだふりするな」 霧は片目を開いて、舌を出すような仕草をした。 ・・・願いはきっと叶うものだと、いつか聞いたことがある。 だから、願った。貴方に会いたい、と。 一目と願った貴方の姿を見ることができた。 今、貴方の側にいる。 そして、これからも・・・ずっと貴方を見ていきたい。 『なぁ、霧』 『・・・お前は俺を知っているんだろう?』 『何処で知った?』 『・・・お前の言うことなら何でも信じられる気がする』 『未来? 俺が死んでから何百年も後なのか?』 『・・・俺の為にか?』 『・・・だったら・・・・・・何処にもいかずに・・・いつも俺の側にいたらいいだろう?』 『離れるなよ・・・な? 霧・・・』 「輪廻転生」という言葉がある。 人は生まれ変わり、時を流れていくものならば・・・ いつか、お前の“時”に生まれ変わるだろうか。 生まれ変わってみせる。 お前が来たのなら、俺にも行けるだろう。 互いの願いを携えて、遥かな“時”でまためぐりあいたい・・・ |
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