十四、泰山

 

東岳・泰山。中国五岳の筆頭として、夏王朝以来、秦の始皇帝、漢の武帝など、天子が即位した折、天下を統一したことを天帝に報告する封禅の儀式を執り行うのだが、もう一つの重要な意味は、冥府の王、泰山府君の霊山として名高いことから、自らの不老長寿や昇仙(死後仙人になること)を願うことだと言われている。
そんな霊山から、一人の、古びた黒衣をまとい、すらりとした長身の男と、なぜか一匹の白猿が一気に急勾配な山の斜面を駆け下りていた。

「・・・そなたの主はどのような方なのだ?」
駆け下りつつ、問うた男の言葉をかき消すように、白猿はキーと喚いて彼の頭上を越えて行った。尖った大石の上を、常人なら怯むその道無き道を、ぴょんぴょん・・・と、両手足を上手く使って、楽しそうに跳びはねていく。
「我が王よ・・・「神獣」には未だ謎が多うございます」
そう呟きつつ、彼も負けずに跳躍する。

泰山から眺めると下界には、か細い川が、黄砂の大地が、樹木の緑色のかたまりが・・・そして、ゆっくり動く黒い点がある。大地を耕し、荷を運び行き交う人々の姿が。
大地で起きている血なまぐさい人間の争いごとを嘲笑うかのように、泰山は雄大にそびえている。だが、その山をあえて降りている男。
彼はここ数年、泰山と6666段の階段で結ばれた麓の街・泰安から出たことは無かった。(もっとも彼は階段を使わないが)
それゆえ、彼の心の中には底知れぬ不安と、それを上回る未知への期待があった。生命の躍動の原点は好奇の心ではないか、と彼は考えたりもした。

・・・彼の名は、周泰。字は幼平。ゆえあって、成長してからこの山に入った貧しい家の五男。恐れ多くも泰山府君の一字を頂き(下界=地上ではあまりこだわりがないそうだが)、師につき、日々慎ましく、また過酷な環境で体を鍛えながら過ごしていた。


泰山の麓、泰安の街には木石で造られた岱廟という広大な建物がある。西の街はずれに入ると、急に土壁の民家が建ち並び、市がある。ささやかな賑わいに、こわもての周泰の顔が自然とゆるんだ。
神聖な山には、宗教や武を求める者達が必ず集まるもので、周泰はとくに目立つことも無かった。
しばらく行くと、今度は静かな空間が広がっている。人通りもまばらで、林のようにうっそうと茂った中を、猿は振り返ることもなく道案内する。周泰が立ち止まって景色に目を留めると、待っていてくれる。彼が歩き出すと、また猿も歩く。

白い塗料もはがれかけた古びた邸宅。だが、庭も周辺の道も小ぎれいに掃除してある。
道案内の白猿が、門の前に立ってキャッキャと喚くと、門番小屋でよだれをたらしながら居眠りしていた中年の門番が飛び起き、口をぐいと拭って、
「あ、案外お若い方で・・・これは失礼、例のお客さんですよね。お待ち下さい」
と、周泰を見て気軽に声をかけ、中に入れてくれた。
「ありがとうございます」
深々とお辞儀をすると、門番もまた腰をかがめて丁寧にお辞儀をしてくれた。
白猿は既にいない。消えたのか、奥に行ったのか。

「ささ・・・ご主人様がお待ちですから、どうぞどうぞ!」
うながすと、邸宅の方からまた別の髪に白いものが混じった使用人がやって来た。
「ああ、いらっしゃいましたか!こちらです!」
先ほどの門番といい、この使用人といい、満面の笑みである。
周泰はここの主はよほど性格の良い方なのだろう、と勝手に思い込んでいた。

邸宅は、岱廟など泰山の建物に負けないぐらい荘厳で、圧倒されはしたが、廊下を歩きながらよく見ると、飾られている室と、物がない質素な室と、使い分けてあるらしい。幾つかの室しか見えなかったのだが。
しかし、この邸宅の主は聞いてはいたが、本当に大金を持っているらしい。
それなのに、自分を呼んだ理由が周泰はひどく気になってきた。
富豪は、全てを金で解決する性格の人種だ、と何かで聞きつけて以来、周泰はそういう人種があるとすっかり思い込んでいたので、自分のような金もない人間をどうするつもりか、考えていたのである。

奥には亭がある。水が抜かれて、空になった何とも寂しい亭が。
使用人が「お待ちを」と言って、小走りで行った。
主人とおぼしき老人が、そこでまた書簡を枕に居眠りしていた。
今日はあたたかな日ではあるが、この邸宅の空気はゆる過ぎはしないだろうか・・・世の中は殺伐としている。
揺すられて、白髪の老人が顔を上げると、すっかり書簡の跡が頬にくっついていた。使用人がそれを告げたり、衿を正していたりで慌ただしい。・・・こちらを指さして説明すると、老人は寝ぼけた顔で、周泰を見つけて、にっこり人なつっこく微笑んだ。老人と言うよりも、子供のような角のない笑みだった。

使用人があたふたと戻って来て、やっと周泰は亭に招かれた。使用人は老人と一言二言交わすと、忙しく邸宅の中へ消えて行った。すぐに別の中年の女が茶を出してくれた。
老人が骨張った手で、ふっくらした女の手を撫でると、女は彼の手をペン、と叩いてさっさと戻ってしまった。
「ふふ。・・・勝ち気な女ほど良いものでしてな」
未練がましく女の後ろ姿を目で追いかける老人に、周泰は何も答えなかった。

「女はお嫌いですかな?」
「いえ・・・嫌いではありませんが、ここしばらくは山にいましたので」
「おお。それは人生の暗闇を走るというもの。どうですか? 今夜あたり誰か可愛い娘でも見つくろって当たらせましょう・・・」
まるで品を売るかのように、さらさらと言葉が紡ぎ出されてくる。この時代の女は物品扱いされている。
「・・・いえ、お構いなく」
「もしや・・・経験がございませんかな?」
意地悪い笑みに、周泰はきっぱりと答えた。
「あります」
昔に・・・一度だけ愛した女の面影。一度だけ、役人の妾になる前に、と懇願された幼なじみの女・・・。

「そうですかそうですか・・・無ければ相応の女を用意せねばならぬと思っておりましたのでな」
老人はその手の話が好きらしく、目尻を下げきっている。
それから女についての講義が始まりかけたので、周泰は困り切って、
「ご老人・・・私が参ったのは、」
老人はそう慌てずに、と片手で制し、衿を正して座り直した。
すっと、一本の線が老人の両目を横切った。周泰を凝視しているのかと思いきや・・・瞳孔は開いたままだった。
老人の身振りと口の動きに翻弄され、注意してその眼を見ていなかったことに、周泰は恥ずかしくなる。眼で人を見る大切さを学んでいたはず・・・。

「ご同情下さらなくて結構。わしの遊びが過ぎて、天罰が下ったまで。・・・まぁ、この年寄り、死ぬまで遊びはやめませんが・・・」
かっかと笑った老人だったが、周泰は痩せた老人が急に大きく見えてきた。無駄に年を取っているわけではない。年齢とは恐ろしい。
それを見越すかのように老人は微笑しながら、白い人差し指を天に向けた。
「あのように澱んだ空を・・・貴方はどう思われますかな?」
薄暗い、ところどころに雲のかたまった空。・・・そういえば、ここ数か月、晴れたまぶしい光を見ていない。

「曹公・・・」
「公ときましたか。今は隠居したただの痩せ爺。曹翁とでも呼んでもらいたいものですなぁ・・・」
老人、[亠兌]州太守・曹操の父、曹嵩も光しか見えぬ目に暗い空を映していた。

 

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