序章、覇軍の王(五)

 

「と、言うことは・・・董卓と呂布が私を撃破してそのまま文台様を攻めにかかる、か」
当の愈河は、[各隹]陽の西部で腕組みし、慌てふためく部下の報告にも、淡々としている。
「いかがされますか?」
「いかがされますか、と問われても私には答えようがない・・・」
「そんな悠長に構えておられる場合でも・・・」
「わかってはいるが、どうしたものかな」
愈河の周囲では将軍達が、続々と集まり始める董卓らの軍勢を前に、冷や汗を抑えきれなかった。
自分たちの部隊はもちろん、いくら孫堅とて、対処しようがない万の数で埋め尽くされていく。暗闇に蠢く虫のように、気味が悪い。
自陣の背後には、孫堅が出した『龍嘯』がいるが、[各隹]陽の鎮火の為と、その制御に孫堅はかなりの疲労をしているはず。
これ以上、長引かせることも、董卓に破れることも、すなわち自軍の壊滅に他ならない。

・・・解せない。敵の『神獣』がおとなしいハズがない。

そればかりが気にかかる。
[各隹]陽の炎自体、誰の所有かわからぬのだが。
ふと愈河の横顔を覗いた部下が、気付いて下に目をやった。
「伯海様・・・まさか、貴方まで・・・?」
「・・・表には出さないから大丈夫だ」
愈河の下げられた両拳が地面を叩くように動いている。
「ですが・・・」
「問答は後にしよう。とにかく、相手を引かせねば」
「貴方まで出されると・・・水は引きませんが」
「人のツッコミはいいから、雑魚は何とかするんだ」
「・・・雑魚?」
天下最強と謳われる呂布の騎馬隊を、雑魚と一言で片付けた愈河の心中を、皆が疑うのは当然である。
「どうあがいても、天を見上げているその者は、人間に過ぎないということだ。・・・そう考えれば、望みがあるだろう?」
わかったようなわからないような顔が周囲に浮かぶと、愈河は見渡して満足そうに笑った。

・・・愈河の耳にも、軍楽隊の音は聞こえている。
この、共鳴しようとする気を、この[各隹]陽にいる皆が、感じているのだろうか?
愈河は、董卓陣営から降り注ぐ矢を、自身は仁王立ちになって見ている。
被害を受けているのは自軍だが、規則的に射る技を見せつけている一軍の、その指揮は呂布が執っているのだろう。
弧を描いて、降り注ぐ雨が美しいと感じるのは、己の余裕なのか、決定的敗北を知る為か・・・。

ゾクゾクっと、全身が震え上がった。
恐怖ではない。と、自身で再確認した。
背後・・・胸の奥に見えたのは、紐のようなもの。赤い光を放つ白と黒。
・・・伯符殿、やっと生んでやったのか。思ったより時間がかかったようだ。
愈河は、ふっと笑って、拳の力を入れ直した。
「・・・どちらの勢いが強いかわからぬが、まずは見るか」
目を閉じると、激しく体が勢いに押されたような感覚に捕らわれた。


風のように、身に触れて抜けていくのは、流れ。
陰陽の光をその身に映す長大な河・・・。
東から西へ、逆らって、果て無き水の道をたどって。水が果てても地流をたどって。
延々と、永遠とも続く流れの中に、体が溶けていく。
ただ、浮かんでは沈み、沈んでは上へと押し上げられる繰り返し。
水流から、逆さまに下へ浮き出され、広大な砂の大地が見えた。

・・・赤い大馬がいなないている。 それに騎乗して、よく焼けた肌に、茶色の艶のある髪をなびかせる漢。
周囲には、ギラギラと光る青銅色の盾が並び、長き槍を掲げて鬨の声をあげている。
軍隊の足元は、埋め尽くされて影も見えぬほどびっしりと並んでいる。
漢は、弓袋を下げても背負ってもいない。呂布では無い。
かたびらの鎧の縁々には赤い生地が使われ、金銀の刺繍を施している。
また、戦袍には、銀糸が光り、繊細なほど美しく細かな植物の模様が織り込まれている。それが、華やかに舞い上がって人馬共に、雄姿を彩っている。
腰から抜き放たれた、美しい青白い長剣。太陽の光に反射して、緊迫した光を生みだした。

瞬間。・・・漢が、見上げた。眼が合った。獣のように鋭く、茶色の眼が大きく開いた。

一気に、体が後方へ引っぱられた。
逆流する。激しい勢いで押しやられ、回転し続ける。
ああ・・・という叫び声だけが目まぐるしくこだまして、赤い色の水にさらわれていく。


「伯海様ッ!」
パンっと頬を叩かれて、愈河が閉じていた眼を開いた。殻を通したように、叩かれた頬は、痛みを感じなかった。頭から背までぐっしょりと汗をかいていた。
「あ・・・すまぬ」
吐きだした息が、長かった。
「よもや取り込まれたのではあるまいかと・・・」
まだ若い側付きが見入っている。若いだけあって、言葉だけは軽く聞こえる。
「大丈夫だ。・・・敵は?」
「それが・・・先ほどから」
答えの代わりに、側付きは、指を外に向けた。
愈河は、疲れ果てたような体を引きずって外に出ると、
「これは・・・?」
鶴翼に広がって、今にも押し潰しにかかっていた、董卓と呂布の軍勢が、少しずつ後退している。
弓兵が構えながらも、後ろ足に下がっていくのが、まだ愈河の眼にもはっきり見えた。

「撤退とは・・・まだ、本格的にぶつかった訳でもあるまいし。・・・策にしては、不十分でないか。呂布は出なかったのか?」
「は。一切、姿を現しません」
「・・・わからぬ」
愈河は撤退する董卓の軍勢の動きを見続けていたが、全くその理由を推し量ることが出来ずにいた。

「追撃しますか?」
諸将が愈河を取り囲む。
「・・・いや、しばらく様子を見よう。撤退するからには、備えはあるだろう。先に、斥候を出した方がいい」
「はい!」
口早な普段と同様の愈河に、皆がほっとしたような表情になった。
・・・一体、どれぐらい時が経っていたのか。


斥候が放たれ、追撃準備に取りかかると、愈河の側には一時、人がいなくなった。
愈河は静かに溜息をついた後、眼を閉じてみたが、流れを見つけることは出来なかった。
「・・・覇軍の王」
その呟きは、喧騒の中でかき消えていった。

 

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