「紅炎」年表

※随時追加修正有。話の流れによっては勝手に変更する場合があります。あくまで「紅炎」用の設定です。人名の後ろの()は数えの年齢。

出来事
年代

許チョ関連

○程c生まれる。
(144)
 
○曹操生まれる。
永寿元年(155)
 
○孫堅生まれる。
永寿二年(156)
 
○荀攸生まれる。
永寿三年(157)
 
○劉備生まれる。
延熹四年(161)
 
○荀ケ生まれる。
延熹六年(163)
 
 
延熹八年(165)
○羅義・雷真生まれる。
●六月、党人達釈放。故郷に帰され終身禁固に(第一次党錮事件)
●十二月、桓帝(劉志・36)逝去。
永康元年(167)
 
●正月、霊帝(劉宏・12)即位。
○曹仁生まれる。
建寧元年(168)
○許定生まれる。
●九月、李膺らに逮捕令が出される。“党人”として死んだ者が百余人、関係者は禁錮、妻子は辺地に強制移住(第二次党錮事件)
○張遼生まれる。
建寧二年(169)
○馬路生まれる。
○郭嘉生まれる。
建寧三年(170)
○許チョ生まれる。
○諸葛謹生まれる。
熹平四年(174)
 
○孫策・周瑜生まれる。
熹平四年(175)
 
○司馬懿生まれる。
光和二年(179)
 
○諸葛亮生まれる。
光和五年(181)
 
○孫権生まれる。
光和五年(182)
●この頃から、曹仁(15)徒党を組んで行動するようになる。許チョ(13)もその中に。
●二月、太平道の張角蜂起(黄巾の乱)。
●三月、何進を大将軍に任命。党錮のメンバーと黄巾が結ぶのを恐れ、党錮の禁は解除。
●五月、皇甫嵩は長社において黄巾の包囲を受けるが、朱儁・曹操(30)の助力を得て、これをうち破る。
中平元年(184)
●[言焦]でも、黄巾や支援者の摘発の他、盗賊などの取締、邑の巡回が強化される。
●世の混乱を直視し始めた曹仁(17)は、徒党を組んでいた若者を兵に置き換え、軍隊を意識するようになり、賊とも交戦。※同時期より、黄巾や盗賊の一派が[言焦]を襲うことが多くなる。
 
中平二年(185)
○李璞(本姓は不明)生まれる。
●十一月、曹嵩が大尉となる。
○冬、曹丕生まれる。
中平四年(187)
●秋、李璞(3)、[言焦]郊外に捨てられ、李岱(30後)に拾われる。
●三月、霊帝、刺史を州牧に改め、劉焉を益州牧、黄[王宛]を予州牧、劉虞を幽州牧に任ずる。
●八月、「西園の八校尉」を編成し、袁紹・曹操らが校尉となる。
●十一月、張温と丘力居が青・徐・幽・冀の四州で略奪。公孫[王贊]、防ぎきれず。
中平五年(188)
●許定(21)、結婚。
●曹仁(21)、手勢千余人を連れ、徐州[シ隹]水・洒水付近に侵攻してきた張温らに属する賊兵と戦闘し、追い散らす。
●八月、宦官張譲ら、宮中で何進斬殺。袁紹、宦官を皆殺しに。少帝(17)と陳留王劉協(9)は宮外に脱出。帝は都に連れ戻され、董卓の支配下に。董卓自ら司空になる。
●九月、董卓は少帝を廃し、陳留王を帝位に(献帝)。董卓大尉に。十月、相国に。
●袁紹・廬植・袁術・曹操(35)らが都を離れ、根拠地に戻る。
●十二月、曹操、己吾(陳留と[言焦]の中間)で挙兵。
中平六年(189)
●正月明け、許忠(50?)急死。許チョ(20)が一族の長に。
●冬、曹操の挙兵準備に、一時は、董卓の報復を恐れ、[言焦]に動揺が走るものの、平静を取り戻し、曹操などへの支援物資の輸送に忙しくなる。
※この頃、曹操の父、曹嵩が瑯邪へ逃れる。
●十一月末、曹仁(22)、曹操の元へ参じる。
●正月、董卓討伐軍結、盟主は袁紹。内部不一致から酸棗に集結したものの、やがて解散。董卓、李儒に命じ、劉弁(少帝・18)を毒殺。
●二月、王允が司徒に。董卓、[各隹]陽から長安への遷都を強行。
●六月、董卓は五銖銭を廃し、小銭を鋳造。インフレの進行に。

初平元年(190)

●[言焦]、討伐軍の動向に失意する声や、曹操の敗戦話で持ちきりになるが、解散と共に、自然消滅。
●春、許チョ(21)、李岱の勧めで、丁紡(19)を娶る。
●夏以降、[言焦]でもインフレが進行し、餓死者増加、治安が悪化。
●二月、董卓自ら太師に。孫堅(36)、董卓と呂布の軍を破り、[各隹]陽に入る。
●七月、袁紹、韓馥から冀州牧の地位を詐取。袁紹、曹操(37)を東郡太守に任ずる。
初平二年(191)
●許チョ(22)、馬路(23)と出会う。
●四月、王允と呂布、董卓を誅殺。青州の黄巾が[亠兌]州に侵攻、州牧劉岱が敗死、曹操(38)が迎えられて青州牧となる。曹操、黄巾の降兵を受け入れ、“青州兵”組織。
●十月、劉表が荊州牧に任ぜられる。
●孫堅(37)、荊州にて黄祖追討中戦死。
○曹植生まれる。
初平三年(192)
●葛陂の賊1万が[言焦]に来襲。許チョ(23)、若者や一族数千家を率いて対抗、苦戦するものの駆逐。※この時期から、妻の丁紡(21)と疎遠になる。
●許チョの元に、侠客がさらに集まるようになる。
●正月、曹操(39)、袁術を撃退。袁術は寿春へ。
●六月、曹嵩殺害され、曹操、徐州に入り大虐殺を行う。
初平四年(193)
●曹操の徐州侵攻により、その方面に頼っていた商業の混乱と、民の流入が起こる。一部、血気にはやった若者達数十人が曹一族へ暴動を起こすが、すぐに逮捕される。
●曹操(40)、徐州へ再遠征。制圧間近で、親友の張バク・部下の陳宮らが反旗し、呂布を招いた為、徐州から撤退。九月、ケン城に帰還。十二月、[シ僕]陽で呂布と対峙するが決着つかぬまま兵を引く。
●十二月、陶謙が病死し、劉備(34)が徐州を領有。
※孫策(20)、揚州牧の劉ヨウを破り、江東に勢力を伸ばす。
興平元年(194)
●許チョ(25)、馬路(26)を徐州に派遣。馬路、一通りの情報収集後、帰国の際、曹操軍の部隊(曹洪隊)に襲撃された村で来梗(12?)を拾う。
●八〜九月、許チョ、豪商李岱(40半)の依頼で、[亠兌]州のケン城へ向かう支援物資輸送を護衛。その際、曹仁(27)と再会。その後、李岱の剣客である張誠が消息を絶つ。
○十二月、丁紡(23)死去。
●正月、曹操(41)は、呂布を定陶で破り、[亠兌]州を手中に収め、十月、[亠兌]州牧となる。呂布は劉備の元に身を寄せる。
●三月、李カクが献帝(劉協・15)を武力で自陣営に連れ込む。以後、献帝は関中の各地を転々とする。
●四月、伏氏を皇后に立てる。 朱治が太守の許貢を追い払い、呉郡を乗っ取る。袁紹は、臧洪を攻め殺し、公孫[王贊]を鮑丘に破る。
興平二年(195)
●李璞(11)、羅義(31)に医学を習い始める。
※許チョ(26)、[言焦]を出ず。
●正月、建安と改元する。袁術と劉備(36)が徐州を争い、劉備が敗れると、呂布が徐州牧を称する。
●二月、曹操(42)、汝南、穎川の黄巾、何儀・劉辟・黄邵・何曼ら数万の軍を撃破。
●七月、献帝(15)が[各隹]陽に入る。
●八月、曹操は兵を率いて[各隹]陽に入り、献帝を許(許昌)に移す。
●十月、曹操は自ら司空となり、荀ケ(34)を侍中に、荀攸(40)を軍師に、郭嘉(27)を司空祭酒に任ずる。棗祗の献策をうけ、曹操は屯田を始める。呂布に破れた劉備が曹操のもとに身を寄せ、曹操は劉備を豫州牧に任ずる。
※孫策(22)は会稽太守の王朗を伐ち、会稽太守を称する。
建安元年(196)
●二月、許チョ(27)、軍を率い、汝水一帯の黄巾賊を陥とした曹操に帰順。直々に「樊[口會](ハンカイ)」(漢建国の功臣)と呼ばれ、即日、都尉に命ぜられて警護に付く。侠客みな、虎士(近衛兵)に。

※曹操軍団期〜魏の物語なので、年表も魏の出来事や人物中心になります。

(参考)
正史三国志(ちくま文庫)/三国志全人名辞典(徳間書店)/歴史群像シリーズ「三国志」等(学研)/三国志ファンのためのサポート掲示板/他

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